感想『息吹』テッド・チャン著 ~著者は寡作の王にして当代最高のSF短編作家といえる。デビューから現在までの29年間に出した本は、わずか2冊。全部で18編の中短編しか発表していない。にも関わらずヒューゴー賞、ネビュラ賞、シオドア・スタージョン賞、星雲賞など世界の名だたるSF賞を合計20冠以上も獲得している。これはただ事ではない
17年前に刊行された第一作品集、『あなたの人生の物語』を読んだときも、衝撃を受けたのを覚えている。当時の印象は、とにかく知的だということだ。ひどく洗練されている。SFというジャンルは、出版された時点での社会のテクノロジーの進み具合によって、小説のなかで描かれる世界観や未来像がどこかぎこちなくなってしまうことがどうしても目立ってしまう分野だ。
しかし、『あなたの人生の物語』の中の、どのストーリーを読んでみても、そのような違和感は一切感じなかったのを覚えている。もちろんアイディア、心理描写、ストーリーテリングなどにおいても全く文句のつけようのない素晴らしいもので、わたしは一気に彼の大ファンになってしまった。
よもやよもや、まさかそれから17年も新作の出版を待たされるとは思ってもいなかった。
そうは言っても私だって本書『息吹』が出版されてから3年も放っておいたのだけれど、私は私で育児というエイリアンとの戦いで手一杯だったのだと言い訳をさせてもらおう。余談はこれくらいにして、本書『息吹』の素晴らしく面白かった3編を忘れないように文字に起こしておこう。
『商人と錬金術師の門』
あらすじ
エジプトが舞台のタイムトラベルもの、と言えば想像しやすいだろうか。
主人公はフワード・イブン・アッバスという商人で、ムスリムの教主に拝謁し、自分の身に起こった不可思議な体験を語りはじめる。
従来のタイムトラベルものでは、現在の自分が過去にいってなにかしらの行動を起こし、自分の未来をよい方向に変えようとする話が多いように思う。
しかし今回、過去は変えることができない。アラーにより人の行いは、その運命は決められているというお約束があるのです。男が過去に戻り、どんな行動をとったとしても、過去は変えることができない。自分の人生に起こることは必ず起こるのです。それを知った上で、男は過去へと戻るのですが、そこで男は何をするのか。そしてその果てに、大いなる気づきがやってきます。
感想
昔教科書で、芥川龍之介の『杜子春』を読んで、良く出来た話だなあ、と感動したことがありました。物語としては特に似かよっているわけではありませんが、教科書に乗せれるほど学ぶところの多い、良く出来た話だという点で似た印象を受けました。
緻密に計算された構成をしていることもあり、ああ~、そうだったのね!と驚かされるような展開もあり、なかなか臨場感をもって読ませる物語だと思いました。名作です。
『ソフトウェア・オブジェクトのライフサイクル』
あらすじ
テッド・チャン史上最長の三万語に及ぶ中編である。人間のペットのような、子供のような存在として開発されたAIであるディジエントと、主人公たち人間の交流の物語といえるだろう。
感想
タイトルを見て、なんかつまらなそうだな、と思った過去の自分よ。馬鹿!馬鹿!馬鹿!と言いたくなってしまうくらいに面白かった。
主人公は冒頭で職探しをしている元動物園の飼育係の女性なのだが、彼女がディジエントの開発段階から携わるうちにディジエントに深い愛情を抱くようになる。そして彼女と同じようにディジエントの存在を守ろうとする同じ志の人たちと、彼らの権利擁護のために活動をしていくのだが、読んでいると判るのだけれど、これは完全に<子育ての物語>でもある。
そしてそこには人でないものを子供に持ってしまった人たちの独特の葛藤や心配なども当然でてくるし、彼ら自身の人生の問題も当然絡んでくる。それがテッド・チャンの緻密かつ繊細な筆によって描かれるのだ。面白くないわけがあるまい。
『不安は自由のめまい』
あらすじ
本編の物語世界では、人はプリズムと呼ばれる通信機器を用いてパラレルワールド(並行世界)の人々と、映像や音声、文字を通して交流できるようになっている。主人公のナットはそのプリズムを扱う専門店で働く女性。過去に麻薬に溺れた経験がある。店の上司であるモロウは、ナットと協力してある詐欺を働こうと計画していたのだが・・・・。
感想
個人的には、本編が一番好みの作品だった。ノワール小説とまではいかないが、暗い過去をもつ主人公が、それとは別の悪質な関係性から抜け出せずに、詐欺を計画するという流れがとても面白かった。そこにプリズムという奇妙な道具だてが加わることにおより、並行世界との交流という、今までにないストーリー展開が広がっていく。本質は再生がテーマの人間ドラマなのだけれど、とても新しく、真に迫る物語を見せられたような気がした。
テッド・チャンのデビュー作はこちら↓
感想『北回帰線』ヘンリー・ミラー著〜<百色の語彙>原始の太陽は安宿に泊まる。〜アナイス・ニンによる序文は序文史に残る名文と言える。そしてその序文が示す通りの爆発的名作。
もしかしてこれは・・(ページをめくる手を止める)
まさかね。う~ん・・(思い出したり考えを巡らす)
いや、すごいけど・・・(3ページほどさかのぼる)
いやいやいやいや・・・(深呼吸)
やっぱりそうか。・・・(気づき)
ああ、すげえ。・・・(おしよせる感動味わってます)
すごいのにあたっちゃったな。ああ、すごい。
すごいなあ、これ。
上記が本書を初めて読んだときの私です。
めぐりあったが運の尽き。あなたはこの魅力あふれる悪友から、離れることはもう叶わないのです。
根元的な現実へのわれわれの嗜欲(しよく)を取り戻す。-もしそういうことが可能だとすれば-そういう力のある小説がここにある。~中略~
そして、この書で我々に与えられるものこそは血であり、肉である。飲み、食い、笑い、欲情し、情熱し、好奇する、それらは、我々の最高の、もっとも隠微なる創造の根をつちかう単純な事実である。
上記は、著者ヘンリー・ミラーの恋人でもあったアナイス・ニンの序文である。彼女は6カ国語をあやつり前衛的作家としてすでに著名であったが、ミラーのいくつかの殴り書きのような短文を見て、彼の作家的素質を見抜いた。本書には巻末に、大久保康雄氏による素晴らしい解説文がある。この序文と解説は本書を理解するうえで大海原の海上コンパスのごとき役割を果たす。
主人公はミラー自身で、小説のような、自伝のような、エッセイのような、哲学書のような、どうも規制の枠にはまらない何とも不思議な物語であって、時間も場所も、法則もなしに突然切り替わる。順番、わかりやすさなどはお構いなしで、ついてこれる奴だけついてこいよ。と言われているかのよう。ストーリーとしては、「最後の書」を執筆しようとしているミラーが女性に対してはそのヒモとしての才能を駆使して食事や宿にありついて、男性とは馬鹿騒ぎしたりナンパしたり、やっぱり金をせびったりする内容となっている。
ロクデナシのミラーだが、他人に対する独白は非常に辛辣で過激だ。もちろんその他人に飯や金をせびるので表面ではおそらくニコニコしている。心の中でほんのちょっと、こき下ろすのだ。ミラーは女性全般を非常に好んでいるが、その反面では憎悪もしている。描写が過激である。
そんなミラーの思想、借金、食事、性交、罵倒、悪巧み、友情、たあいもない会話、ちょっとしたドライブ、ナンパ、先の見えない居候、売春宿、美しい自然描写、自動書記のようなシュルレアリスム的文章、決意、覚悟、愚痴などを順不同、時系列無視の状態で読み進めていくと、ある不思議な感覚が起こってくる。
やばいやばいやばい。これはとんでもないぞ、これは実際小説ではないかもしれない。そう、これはヘンリーミラー自身だ。俺が読んでるのは本ではない。ヘンリーミラーという人間を読んでるんだ、と気づく。私たちの実際の生活も、断片から断片への飛躍に過ぎない。その飛躍には大抵こちら側に選択権はなく、限られた可能性の範囲でのみ展開していく。その中には意識としての生活(考え事や回想、思想、気づき、気分)も、もちろん含まれており、その日常の展開性のままに、この『北回帰線』は書かれている。だからこそ、ナマの生活をそのままに体験しているような錯覚に陥る。その構成が数年分にわたって材料として配置されている本書を読むと、おそらく死ぬ前の走馬灯を見ている気分で『北回帰線』を読んでいることに気づくのだ。
ロクでもない生活者のミラーではあるが、読後は不快感よりも爽やかさの方が強く残る。それはおそらくミラーの尋常でない知性に裏うちされているからだ。異常なまでに語彙が豊かで、一見、ただの悪口のように見えても、そこには多くの美しい言葉が使われている。読者はそこに知性と愛を感じずにはいられない。ミラーはきっと、とてつもなく深い愛をもつ人物だ。だからこそ、アナイス・ニンを初めとして、ロレンス・ダレルや多くの友人が彼を見捨てずに支えたのだ。
感想『人間この劇的なるもの』福田恒存著〜人間はただ、生きることを欲しているのではない。現実の生活とはべつの次元に、意識の生活があるのだ。それに関わらずには、いかなる人生論も幸福論もなりたたぬ(本書より抜粋)。エッセイのように読みやすく、哲学書のように深い、私の人生の指南書。
A:福田恆存にあった?小林秀雄の跡取りは福田恆存という奴だ。これは偉いよ。
B:福田恆存という人はいっぺん何かの用で家へ来たことがある。あんたという人は実に邪魔になる人だと言っていた。
A:あいつは立派だな、小林秀雄から脱出するのを、もっぱら心がけたようだ。
B:福田という人は痩せた鳥みたいな人でね、いい人相をしている。良心を持った鳥の様な感じだ。
A:あの野郎一人だ、批評が生き方だという人は。
上記は、昭和23年「作品」創刊号に掲載された対談で、Aが坂口安吾、Bが小林秀雄。気のおけない二人はそれぞれの文学感について遠慮会釈もなく語り合っているが、福田恆存に関しては上記のように二人とも好感を示している。
福田恆存(ふくだつねあり)は大正元年(1912年)東京本郷に生まれ、1994年に死去。2012年には生誕100周年を記念した資料展が神奈川近代文学館にて開かれた。昭和初期に活躍し、その活躍は多方面にわたる。主に、評論、戯作、演出、翻訳で優れた作品を残すが、本書はエッセイに近い評論のような形式で非常に読みやすいにもかかわらず、ひどぐエッジの効いた本である。
新潮文庫から出版されているシェイクスピアの作品は、すべて福田恆存の翻訳によるもので本書においても『ハムレット』や『マクベス』、サルトルの『嘔吐』など英米文学が多く引き合いに出されている。福田氏は劇団の主宰者でもあり、文学と演劇をキーワードとして、人が幸福に生きるための手引きをする。
人間はただ、生きることを欲しているのではない。現実の生活とはべつの次元に、意識の生活があるのだ。それに関わらずには、いかなる人生論も幸福論もなりたたぬ。
福田氏はまず、人間の意識について言及するのだが、その際サルトルの『嘔吐』を引き合いに出し、「特権的状態」と「完璧な瞬間」というキーワードを提示する。端的に例を示すと、人が生まれる際自己の意識はそこに参加することは出来ない。なぜならまだ、もの心もついてないから。他方、人が死ぬ際はどうか。死に至る前に、少なからず準備する期間(意識)はあり、特権的状態をつくる余裕を持てる。その死を完璧な瞬間に仕立て上げることができる。「完璧な瞬間」とは、ある意味ニーチェの「永劫回帰」と類似する。
ところが福田氏は現実はままならぬと言う。現実において私たちは主役を演じることはできない。望むと望まぬにかかわらず、主役どころか端役でさえもままならぬと言う。
私たちは日々の労働で疲れてくる。時には生気に満ちた自然に眺めいりたいと思う。長雨のあとで、たまたまある朝、美しい青空にめぐりあう。だが、私たちは日の光をしみじみ味わってはいられない。仕事がある。あるものは暗い北向きの事務所に出掛けて行き、そこで終日すごさなければならない。そのあげく待っていた休日には、また雨である。親しい友人を訪ねて、のんきな話に半日をすごしたいと思う時がある。が、行ってみると、相手はるすである。そして、孤独でありたいと思うときに、かれはやってくる。
福田氏は言う。
社会が複雑になればなるほど、人は自分の役割を選べなくなる。また、私たちの行為はすべて断片で終わる。未来は常に現在の中断という形で訪れ、その変転に必然性はない。生活が断片化する。無意識のうちに不満が堆積する。
さらに福田氏は「個性」について言及する。
個性などというものを信じてはいけない。もし、そんなものがあるとすれば、それは自分が演じたい役割ということにすぎぬ。他はいっさい生理的なものだ。右手が長いとか、腰の関節が発達しているとか、鼻がきくとか、そういうことである。また、人はよく自由について語る。そこでも人々はまちがっている。わたしたちが真に求めているものは自由ではない。わたしたちが欲するのは、事が起こるべくしておこっているということだ。そして、そのなかに登場して一定の役割をつとめ、なさねばならぬことをしているという実感だ。
生きがいとは必然性のうちに生きているという実感から生じるという。その必然性を味わうことが生きがいだと言っているのである。
次に福田は必然性を宿命と置き換えて、人がそれに失敗、あるいはその予感を持つとき、自己欺瞞に走ると説明する。遺伝とか、過去における異常な体験とか、社会的欠陥などにその要因をすりかえる。呪術や神託、フロイディズムマルクシズムなどもその歴史的変遷とする。
必然性(宿命)を味わうために、人は自分の好みの役割を演じ日常性に歯向かうのだが、生活は常に私たちに地べたを這わせようと寝技を仕掛けてくる。私たちの「意識」はそれに負けぬために常に気をはって演じつづけ、「特権的状態」の足場を固める。そしてその予兆の際は、「完璧な瞬間」を召喚しなければならない。日常では思うようにならず「完璧な瞬間」には程遠い。ではいったいどうしたらよいのか?
ここで福田は「演技」することのメリットを提示する。舞台の上で役者(ハムレット)はこの先の結末を知りながら「現在」を演じる。そこに既知の影が見えてはならない。ここに役者の二重性が生じる。役者はこの場合は、物語の全体を把握しているのだが、あくまで「部分」にとどまらなければならない。この時役者は、ある意味で見て見ぬふりをしなければならない。
現在の私たちはどうか。あまりに全体を鳥瞰しすぎる。「部分」であることは個人の特権であるのに、人は「全体」が見えるものと錯覚している。
その一方で、個人は社会の部分品として歯車化していると不満を持っている。『私たちはなぜ全体が見通せるのに部分に成り下がっているのか』と。いや、本当は全体を見通せてしまったからこそ、部分に成り下がっているのだ。知識階級の陥っている不幸の源はおおかたそこらへんにある。
このあと福田氏は「ギリシア悲劇による死の必然化」を述べ、そこには前提として神々への信頼感があったという。自分を滅ぼすものの正体を見極めたう上で壮大に祭り上げる。その上での個人の生き方があると。
ここで福田氏は有力な一例を示す。ソクラテスは世界を解明するような形而上学を何一つ体系化しなかった。それは彼が、無知という段階にとどまっていなければ、全体を把握することはできないと直感的に悟っていたからである。つまり彼は無知という役を演じていたのである。前述のように、彼がなんの学問体系も残さなかったのにも関わらず、最高の智者であるプラトンやアリストファネス、アルキビアデスなどが彼を師と仰いだのもそのような事情に由来するのである。
「部分」として「全体」を味わい尽くす。「生」きながらにして「死」を体感する。日常では困難なことだが、人は演劇や物語にそれを求める。役者や登場人物が、無知のまま、部分のままに全体(死)にぶつかっていく。
彼らは常に未来をしらない部分のままに善悪の行動をし、それらは全体(自然や死)の法則にしたがって報われたり、罰せられる。そこに人々は安らぎを感じる。無知が部分のままで全体に抱かれることに限りない安堵感を覚える。そこでは生と死が混然としている。観客はそこでカタルシスを疑似体験し、浄化される。
最後に福田氏は演劇や葬儀を「型」として把握し、そういった「型」に「自然(生死)」を落とし込むことで人は全体としての個を取り戻すのだと結んでいる。
生は必ず死によって正当化される。個人は、全体を、それが自己を滅ぼすものであるがゆえに認めなければならない。それが劇というものだ。そしてそれが人間の生き方なのである。人間は常にそういったふうに生きてきたし、今後もそういうふうに生き続けるであろう。
厚い雲の上で、雷がゴロゴロ鳴っているような感じの本だった。必要なのは避雷針かそれとも傘か。迷うところだが、名著であることに間違いはない。
感想『恐怖と愛の映画102』中野京子著 +ぼくたちのファム・ファタール+ ~一本につき2ページ半の文章と一枚の写真カットにより構成されるサクサク読める映画エッセイ。映画という媒体の素晴らしさを再認識させる明察、名文のオンパレード。
A
自分の人生の主役は自分だ。となると、他人の人生においては、誰もが脇役でしかない。
B
小説にしても映画にしても、敵役が強力でなければヒーローも輝かない
まるで箴言のように印象的な書き出しでエッセイは始まる。
ほうっと思う間もなくあらすじの説明が来る。込み入った事情でもすっと理解できてしまう整理されつくした書き方。著者がそれぞれの映画の世界観を深く理解しているのがわかるし、印象的なシーンを切り取る視点の良さと語り口の面白さにセンスを感じさせる。
C
断崖絶壁の上に、あぶなっかしく立つ電話ボックス。案の定、車に当てられただけでいとも簡単に、ぽーんとはじき飛ばされる。そのまま、のどかに宙を舞い、はるか下の青い海へと落ちてゆく。中には人がいた。もうこれでは助かるまい。
D
究極の別れといえば、死をおいて他にない。誰しもいつかは必ず、この世にさよならを言わなければならない。ニューヨークの古ぼけたアパートに一人住むタフな老女にもその別れのときが迫っていた。彼女は自分の生きた証に何としても語っておきたいことがあった。だが、聞いてくれる相手がいない。そこへたまたま空き巣狙いで忍び込んできた黒人青年、この男を逆に銃で脅し、かつまた値打ちものの古い金貨で釣って、無理やり話をきかせようとする。
E
恋ぞすべて。世界を失いて悔いなし-。ドライデンの詩句である。まさにこの映画の主人公がそれだ。彼にないものはなかった。エリートたる教養、財産、地位、美しい妻、優秀な子供。いずれ首相にもなろうかという男盛りの彼の前には、輝く明日が開けていた。そこへ彼女があらわれる。人生には予測もつかない展開がある。彼女は息子の婚約者。たがいに一目で魅かれ合い、愛し合うようになると破滅まで一直線だった。~中略~息子への嫉妬で食べたものを吐くほどの肉体的拒否反応・・・・・。
良き映画はストーリ-自体が面白いものなので、著者のような文章使いが筋を語ればそれだけで充分、人生の深淵を感じてしまう。最後に、その映画が著者に与えた感動・恐怖・疑問・気づき等について書かれる。これが102本分収録された本書を読めば、どんな映画嫌いでも今までにない新鮮な目でもって数本の映画を見るだろう。
官能的な表紙の絵は、フランツ・フォン・シュトゥックの『スフィンクスの口づけ』という絵だそうだ。ファム・ファタール(運命の女)との死と隣り合わせの接吻が私たちと映画との恐怖と愛に満ちた関係性なのかもしれない。
※以下にアルファベットのアンサ-(作品名)あり。あなたはどんな作品を思い浮かべましたか?
A 『彼女を見ればわかること』主演 キャメロン・ディアス
B 『逃亡者』ハリソン・フォード
C 『ウェイクアップ!ネッド』イアン・バネン
D 『ダスト』ジョセフ・ファインズ
E 『ダメージ』ジェレミー・アイアンズ
感想『三体Ⅲ』死神永生・上下~人類VS三体人。超絶スケールの大SFここに完結する。
〜あらすじ
全作において一時的に三体文明をしりぞけることに成功した人類。その一方で、極秘のプランが進行していた。
『階梯計画』といわれるこの計画は、三体文明に人間のスパイを一人送り込むという奇想天外なものだった。この不可能とも思えるプロジェクトの鍵をにぎるのが、第三部の主人公、若き航空エンジニアの程心(チェン・シン)。
そして『階梯計画』のスパイ候補として浮上したのが、彼女の学生時代の友人。孤独な男、雲天明(ユン・ティエンミン)だった。この二人の関係性がやがて全宇宙の運命を巻き込む壮大な鍵となっていく・・・。
〜始めに冬眠ありき。
第三部における最重要事項のひとつは、人類は冬眠技術を確立しているということだ。第二部においても、面壁者のうち数名はこの技術を使用し、それぞれの研究分野の技術革新が起こるであろう時代まで冬眠する描写がたびたび出てくる。
本作において、その傾向はより顕著になっており、程心たちは物語中何度も冬眠を利用する。冬眠から目覚めたときの世界の変わりようが、本書の見せ所のひとつとなっていて、一度の冬眠が数十年と短いものもあれば、劇的に社会の仕組みが変わっている長い年月の時もある。そのたびに程心に対する社会の態度は異なり、またその文明の発展度もまったく異なったものとなっている。
著者の創造力と、まったくの無から未来世界を描ききる文章力がいかんなく発揮されているのは、この第三部、死神永生が一番だろう。
〜登場人物について
第三部の主人公、程心については読者によって好き嫌いがあると思う。第二部の主人公ルオ・ジーに関しては、わりとその責任感とか正義感にゆるいところがあり、それが逆に読者の共感と、でも最後は一発かましてくれるんだよな!的な期待感をもたせてくれる主人公として、個人的にはおおむね好感をもっていた。
しかしながら程心に関しては、全人類の命運を一手に担うようなナウシカのようなポジションに、しょっちゅうなるのに、決断の際にはその時の心の揺れだけで全人類の生き死にの決断を決めてしまう(ように感じる)。
第二部の主人公のルオ・ジー(男性)が相棒のシー・チアン(男性)と世界を救うために奔走し、第三部においては女性の主人公、程心が同じく女性の相棒である藍AAと世界を救うために奔走する構造には計画性を感じるが、その一方で世界が滅びそうな時にちょくちょく恋愛的な要素をはさまれる時があって、そのときは毎回、『いやいや、今そんな場合じゃないから!』と読みながら心のなかで思うこともしばしばありました。
〜おわりに
まあそんな訳で(どんなわけだ!)、色々とツッコミを入れたいところとか、やりすぎに感じる設定も沢山あったのですが、やはり『三体』は他に比類のないくらいスケールの大きい傑作であったことは間違いないと思います。
ストーリーのうねりというか、展開のダイナミックさには目を見張るものがありますし、登場人物も非常に魅力的です。
情報を開示するところと、あえて隠しておく部分のバランスも良く、読んでいて引き込まれてしまいます。
ただ、本当に知りたい部分。つまり異星人(本書においては三体人)についての描写はもう少し欲しかったような気がします。著者の力量であればそこを書ききることもできたと思いますし、そこを焦らされ続けるのは読みすすめるうちにだんだんとストレスになりました。
読後感としましては、久しぶりにすごいものをよんだなあ、という感じです。圧倒的なエンターテイメントだと思っていただければ間違いないでしょう。読んでみて損はないと思います。充実した読書体験を味わいたい方に是非おすすめいたします。
著者初の傑作短編集はこちら↓
書評『三体Ⅱ~黒暗森林上・下』劉慈欣著~傑作!!SF好きなら、いやそうでなくても 読んでおいた方がいい!圧倒的エンターテイメント!特にこの2部!黒暗森林編!!
〜あらすじ
四百数十年後に地球に到達する三体人の大艦隊。
一方人類は、ソフォンによる監視と妨害により、対抗するための科学的発展もままならない。
起死回生の一手をさぐるべく、面壁計画を実行する人類。
計画を託された4人の面壁者のメンバーに葉文傑により宇宙社会学の公理を話された人物
ルオ・ジーがいた・・・。
~三部作のなかでもこの二作目、黒暗森林編が圧倒的に面白い!!
二作目では、面壁者の一人であるルオ・ジーが主人公となっている。彼は知性もそこそこ、責任感も希薄な人物だが、あまり物事に頓着しない楽観的なところのある人物。他の面壁者が元大統領とか、それぞれの科学分野のトップだったりするところを考慮すると、なんの経歴もない人物とも言える。当の本人も、なぜ自分が、莫大なリソースをほぼ無制限に使用することのできる、救世主のような役職に選ばれたのかよくわかっていない。
そもそも面壁計画というのはなんなのか?これは半ばヤケクソのような、もしくは超ハリウッド的な、あるいは壮大な規模の責任転嫁のような印象をうける計画である。
前作で、三体人は思考がお互いに透明で、騙したり騙されたりすることが出来ない生命体であることが判明した。それゆえ、科学水準は地球よりも圧倒的に進んでいるが、唯一人類が活路をみいだせるのは、ここの相違の部分であると人類は判断したのだ。
ソフォン(デザインされた陽子)の存在で地球上のあらゆる会話、映像情報は三体文明に筒抜けである。唯一安全なのは、ひとりひとりの頭の中の思考のみ。そこで人類は、極度にすぐれた知性をもつ者を選定し、彼らに三体艦隊をうちやぶる方法を思考させることとした。そして莫大なリソースの使用許可、そしてその使用理由の秘匿権も同時に与えることとしたのだ。
他3名の面壁者が、数百万個の水爆の製造や、人類の脳進化のための研究や、宇宙間の戦闘機の製造など壮大な規模の戦略に取り組み始めるなか、ルオ・ジーのみはその秘匿権を利用し、ほとんど私利私欲のようなくだらない要求ばかり行っている。
ほとんど皆からあいつはバカじゃなかろうか?とその人間性を疑われるなか、彼のもとに全作でも登場した元対テロ用警察官シー・チアンが現れる・・・・・。
〜おわりに
シー・チアンが登場すると物語が急に加速するんです。まあ、その面白いこと!本書『三体』はSFなんで、その荒唐無稽さを嘘くさく感じさせないために、科学的検証ページみたいなのが結構多いんですよね。
でも、私みたいな科学ド素人にはそういった記述は暇なんです。読みたいのは登場人物の心理とか、窮地にたたされたときの行動とか、ちょっとした時の会話の素敵さとか、うねるようなストーリー展開とか、大どんでん返しとかそういった判りやすい部分なんです。
そこら辺をうまく織り込んでくるのが、シー・チアンとかルオ・ジーなんです。人間くさいけど、腹のなかで何を考えているかわからないような二人がタッグを組んで、作中の人類と、三体人と、それから読んでいる私たちをも煙に巻いていく。
ルオ・ジーはダメダメに見えるけど、これは本当にダメダメなのか?それとも私たちを騙しているのか?それともやっぱり本当にダメなのか?いやいや、やっぱり何かあるはずだ。でも本当にダメそうに見える・・・。さあ、あなたもすでにルオ・ジーとシー・チアンのとりこ。近くにいたら嫌ですけど、これはあくまで物語。ダメな子ほどかわいいのです。
書評『三体Ⅰ』劉慈欣著 ~ 現実を忘れたいなら三体を読もう!SF界のオールタイムベスト確実!
あらすじ(物語冒頭部分)
1967年、文化大革命の糾弾集会で、目の前で父を殺された天体物理学者の葉文傑(よう・ぶんけつ)。自身も迫害を受ける過程のなかで、ひとつの信念がこころのなかに芽生える。
~人類はみずからを修正できない。外部からの手助けがいる。~
やがて、自らの経歴を買われ、軍の研究所で働くこととなった彼女。過去を忘れるために研究に没頭するうち、彼女はそこで信頼を勝ち取り、研究所の本当の目的についてしらされることとなる。
施設にある巨大なパラボラアンテナ。それを使用した他国の宇宙空間にある衛生の破壊。そう教えられた目的に加え、実は地球外にすむであろう知的生命体へのメッセージの送受信もその研究のひとつの目的であったのだ。
長年の研究の末、それは突然訪れた。
ただ一人気がついた葉文傑のメッセージに応答してきたのが、三つの太陽をもつ惑星にすむ三体文明だった・・・。
驚きの展開・魅力的な登場人物・平行世界の魅力
文化大革命という現実の悲劇。そこに葉文傑(よう・ぶんけつ)をふかく関わらせることで、後に三体文明と接触する壮大なストーリーに真実味を持たせ、不自然ではないものへと昇華させている。
葉文傑が返信したメッセージにより母星より三体艦隊が出港するのだが、その到着までのタイムリミットはおよそ400年。
三体文明が地球に到着するまでの4世紀の間に、地球は彼らを撃退できるほどの科学的発展を遂げなければならない。しかしそこには大きな問題が発生するのだ。
智子(ソフォン・デザイン化された陽子)の妨害によって、人類はもはや遠心分離機などの基礎研究が正しく行えない。加えて、地球上で起こるすべてのことは盗撮、盗聴されている。
近年起こっている科学者たちの相次ぐ自殺もそのことが関係しているらしい。
葉文傑がメッセージを送った数十年後。主人公はナノマテリアルの研究者、汪・ビョウへと引き継がれる。粗雑だが頭のいいテロ専門の警察官シー・チアンと一緒に謎の解明へとのりだす。
このシー・チアンのキャラクターが物語が進めば進むほどいい味をだしてくる。どんなに三体文明が地球より進んでいようと、なんとかしてくれるんではないかって思えるほど頼りがいがある。ハリウッド映画に出てきそうな、ヒーロー的な印象の人物。
そして、次から次へと出てくる登場人物が皆すべからく頭がいい。みんな怪しい。現時点で謎だらけの三体文明についてだれがどこまで関与しているのかがまったくわからない。そこがミステリーやサスペンス的な要素もはらんでいて読んでいてとても楽しい。
加えて、物語の最大のなぞ要素である三体文明について重要なヒントが与えられる。それが、(VRゲーム三体)である。特殊なゴーグルのようなものをつけ、そのゲーム内世界に入り込み、実際に暑さや寒さ、生や死を体験しながらゲームの中の文明を勃興させていく。そこでは太陽は三つあり、極度に過酷な自然環境により文明は何度も絶滅し、また勃興している・・。
おわりに
世界中でヒットしてるみたいだけど、今の中国でいったいどれだけのものが書けるのだろうと懸念を抱きながら読んだ。まったくの杞憂だった。
間違いなく、オールタイムベストの一冊となるだろう。100年後も確実にまだ読まれている。SFというジャンルにおいて、歴史にのこる一冊となるのは確実だろう。
物語は読みやすい。すらすら読める。そしてぐいぐい引き込まれる。
現実を忘れたくて読書をする場合、たぶん本書がベストです。自信をもってオススメします。
著者初となる傑作短編集はこちら↓