本はぼくらの移動遊園地

うまくいかない時ほど読書量がふえるという闇の傾向があります。それでも基本読書はたのしい。つれづれと書いていきます。

書評『本当の自由を手に入れるお金の大学』両学長著 ~「国語・算数・理科・社会・お金」日本の教育がこうなった時にはじめて本当に豊かな社会が出来上がる。そして「お金」の教科書は本書がふさわしい。

あなたは、

 

「俺(わたし)はこの会社であと何年働いていかなきゃならないんだろうか(疑)?」とか

 

「週5ってどう考えても働きすぎだろ(怒)!俺は週2くらいがちょうどいいんだ(怒)!」とか

 

「そもそもなんで働かなきゃいけないんだよ(哀)。おれの仕事は主に二度寝だ(願)!」とか

 

思ったことはありませんか?

 

(胸をはり誇らしげな態度で)私はあります!!

 

 

(突然偉そうな態度で)そもそも週5で一日8時間も働かなきゃいけないなんて、これがほんとうに文明的な社会ってよべるのかなあ?

 

もっと言えば私(コン吉)は自分にも他人にも甘いタイプだから、その影響で同じく週5で保育園なり小学校なりにいかなければならない乳幼児についても、ストレスを与えている気がしてかわいそうな気がするんですよね~。

 

(はい。寸劇終わり。)そうはいっても、(最低必要限の所得を無条件に国民に配る)ベーシックインカム制度などは、議論にはあがっても財源の問題はいつになっても解消されないと思うので、近い将来の実現は難しいでしょう。

 

では私たちは、自分にあった働き方(もしくは全く働かない)を実現することは不可能なのでしょうか?一生をむなしく、上記の叫びをこころに抱いたまま働き続けなければいけないのでしょうか?

 

いや!できます!!(何が・・・)

 

 

お金に対する正しい知識と、それを正しく実行するマインドさえあれば、人は労働からもっと自由になることが出来るのです。

なにも収入をすべて投資にまわせ!とか、今の楽しみを捨ててすべてを節約して貯金にまわせ!とかそういうことではありません。

 

今よりもほんの少しお金にたいする意識を高く持つことでよいのです。つまりは、

 

1・貯める(支出を減らす力)

2・稼ぐ(収入を増やす力)

3・増やす(資産を増やす力)

4・守る(資産を減らさない力)

5・使う(人生を豊かにすることにお金を使う力)

 

について書かれている本書を読むことで、皆さんとわたしは夢に一歩近づけるのです。

 

私(KON吉)は本書を読んで一年発起し、とりあえず余剰資金を20万円増やそうと目標を立ててみました。平凡なおこづかい制の中年サラリーマンの私でも半年で10万円を増やすことが出来ています。 なにも意識がなければ、この10万円は無意識に浪費されていた無のお金でした。つまり1円も手元に残らなかったお金です。でも特に、なにか買うのを我慢していた、という感覚もありません。むしろゲーム感覚で楽しめていたのです。

 

いきなり本書を読まないでYouTubeから見てもよいと思います。私もその順序で本書に行き当たりました。本書は大当たりです!!

 

おおげさでなく、人生を変える強い力を持っています。

 

著者のYouTube、そして本書は私たちのような勤労の悲哀を知っている大人たちだけではなく、特にこれから厳しい社会に出ざるを得ない若者たちや、子どもたちに是非読んでほしい本です。

 

なぜなら、いきる希望がわくからです。

 

あなたは覚えていませんか?はじめて社会人になって働いたあの日のことを。これをあと40年以上続けなければならない、とおもったときのあの絶望感を。

 

これからの時代は、自分とお金の正しいつきあい方を実践することで、自分の働き方を自由にカスタマイズできる時代がやってきます。今よりももっと自由で人生を楽しめる時代がやってきます。ただそれには本書のような正しいテキストを読まなければなりません。

YouTube再生数1億回突破! 帯にかかれているこの事実が、このテキストが多くの人に指示され、読まれるべき内容であることを証明しています。

 

最後に著者の両さんの言葉を引用してこの文章をおしまいとします。読んでくださり、ありがとうございました。

 

どんな状況からでも人生は良くしていける。

たった一度の、あなただけの人生で、今日が一番若い日です。

悔いのない豊かな人生を生きよう。

 

書評『キャッチャー・イン・ザ・ライ』JDサリンジャー著 村上春樹訳~繊細でとげとげしい。感傷的でやさしい。ちらばった未研磨の宝石のような日々。すべての大人が魅了される永遠の青春小説の金字塔。時がたち味わいが深くなったドライフルーツ。村上春樹の手にかかれば、それはもう、もぎたてのフルーツに変貌する。彼の訳業は、彼の素晴らしい作品以上にイメージにあふれている。

こうして話を始めるとなると、君はまず最初に、僕がどこで生まれたかとか、どんなみっともない子ども時代を送ったかとか、ぼくが生まれる前に両親が何をしていたかとか、その手のデイヴィッド・カッパーフィールド的なしょうもないことあれこれを知りたがるかもしれない。でもはっきり言ってね、その手の話をする気になれないんだよ。(本文より抜粋)

 

1984年に白水Uブックスからでた初版の野崎孝訳では上記の文章は以下のようになっている。

 

もしも君が、ほんとにこの話を聞きたいんならだな、まず、僕がどこで生まれたとか、チャチな幼年時代はどんなだったのかとか、僕が生まれる前に両親は何をやってたとか、そういった(デイヴィッド・カッパーフィールド)式のくだんないことから聞きたがるかもしれないけどさ、実をいうと僕は、そんなことはしゃべりたくないんだな。

 

上記の引用文は村上訳の『キャッチャー・イン・ザ・ライ』の冒頭文と野崎訳の『ライ麦畑でつかまえて』を比較してみたものだ。

 

わたしも最初は野崎訳の『ライ麦畑~』の方からこの素晴らしい物語に親しんだ。主人公のホールデン・コールフィールドは、虚無的というか厭世的というか、ニヒルなところがありつつも案外人と交流をもつところもあり、かといって馴れ合うようなこともしない。なんだかひねくれた野良猫のような印象の人物だ。落ちこぼれのレッテルを貼られることも多いけれど、逆に目をかけられることもある。非常にセンシティブで、才気にあふれている魅力的な人物。

 

読みすすめていくと、いつしか彼の話し方とか考え方がなんだか面白くて、彼と一緒に、本の世界を、あっちこっち連れだってふらつき歩いている。そして気づいたら、この物語が、ホールデンと読んでいるあなたの、共有の思い出になっている。気づいたら(今のわたしのように)赤の他人に見境もなくすすめるようになってしまうのだが、ここで上記の引用文(野崎訳)を思い出してほしい。

 

 

個人的に、知的で才気にあふれていて、肝心なところでは、ひじょうに紳士的に振る舞える頭のよさを持つホールデンにしては、すこし野暮ったい印象をうける。~ならだな、~なんだな。という語尾が二つ続いているところとか、チャチな~、くだんないこと~、といった言い回しから受ける印象は、ストーリーが進むうちに明かされるホールデンの人柄とはかなりギャップがある。

 

 

村上訳ではそこのところがかなり改善され、ホールデンが本来の上品さと知的さを冒頭から取り戻している。簡単にいうと野暮ったい言い回しが洗練された青年の口調に変わっている。個人的に序文に抱いていた残念感が見事に解消され、いよっ!村上春樹!!とこころの中で勝手に合いの手?を入れながら読んでいた。。素晴らしい訳業はすでに序文から感じられたのだ。

 

 

もしあなたが野崎訳しかまだ読んでいないのだとしたら、是非この村上訳『キャッチャー・イン・ザ・ライ』を読んでほしい。きっとまた、あなたの中に親しんだ彼が現れる。以前とはまた少し味わいの変わった彼が現れる。より現代的に洗練された彼は、口の端をちょっともちあげて、あなたに言うだろう。目を輝かせながらあなたに言うだろう。彼があなたのなかに現れたのは、あなたのなかにまだ子どもだったころのあなたがいるからだと。そしてその子どもは、あなたのなかから永遠にいなくなることはないと。ホールデン・コールフィールドはあなたのなかから永遠にいなくなることはないのだと。

 

野崎訳はこちら↓ サリンジャーの生涯を知りたい方にはこちらの映画がおすすめです。↓ 2021年7月現在Amazonプライムで見られます。↓ Amazonプライム無料体験はこちらから。

書評『マンガ版ちょっとだけこっそり素早く言い返す技術』ゆうきゆう著~人生の真理がここにある!かわいい猫ちゃんのイラストとは裏腹に、かかれている内容は人間関係に必須。しかも「あ~、それよくあるっ!」て心当たりのある数々。これは是非こどもに読ませたくなる。珠玉の叡知!

 

例えばあなたは職場で、学校で、家庭で、だれかに嫌なことを言われて、

 

「あ~、イライラする!あのときこう言ってやれば良かったなあ」なんて思うことはありませんか?

 

私はしょっちゅうあります!

 

言われたその場では、ずいぶんおかしなことを言っているなあ、とか問題はそこじゃないんだよなあ、とかそれって俺にいうことじゃないんじゃないの?とか、漠然とした違和感は感じるものの、自分のなかで反論するための論拠が、すぐに思いつかなかったり、まあ一理あるかもしれないし、この人も言いたくていってるんじゃないかもしれない、と思ってその場でなにかいうようなことはしないんですけど、その日一日イライラして、その事ばかり考えてしまうってことはないですか?それで夜眠れなくなってしまったりすることはありませんか?。

 

私はしょっちゅうあります!(2回目)

 

いままで人並みに自己啓発本も読んできましたけど、そこのところをうまく寄り添って、説明してくれている本があまり見当たらなかったんですよね。

 

本書のタイトルを見たとたん、これだ!!(笑 と思いました。

 

くすっと笑える4コマ漫画を主体にして、1~2ページの文章による各項目の説明文が書いてあります。とても取っ組みやすくて、理解もしやすいです。そのくせ内容はこれこれ!これが知りたかったんだよ~~!とこちらがついつい思ってしまうほどのかゆいところに手が届いている感があります。

 

内容については是非本書をお読みください。

 

精神科医のゆうきゆうさんの飾らない文章と、jamさんの可愛らしいイラストが、あなたに最高に親身になって、わかりやすく説明してくれます。

 

おおげさではなく、この本で人生が好転しはじめる人もいると思います。

それは私もそうだったし、あなたもそうかもしれないのです。

書評『科学的にラクして達成する方法』永谷研一著 ほんとうの三日坊主の治し方。

 

三日坊主は治せる。 

 

そんなことを言われたらあなたはすぐに信じられるだろうか。

 

明日からダイエットするぞ!

明日から毎日一時間勉強するぞ!

明日から早起きするぞ!

 

そんな決意をわたしたちは一体なんど繰り返してきただろう。

ご多分にもれず私も同じ。いままで何度となく決意しては挫折してきた。

 

英語教室に通ってはすぐに挫折、入学金をどぶに捨て、

大学受験では毎日の勉強がおっくうで一浪を経験している。

早起きに関しては二度寝が大好きすぎて実行できた試しがない。

 

そんな私にも、なんとなく読んだ本書のおかげで驚くほどのことが起きた!

 

私の場合、

30分~1時間の資格のための勉強。

筋トレ。

翌日のための主菜のつくりおき。

 

この3つの習慣を週に3~5のペースで半年以上続けることができている。

本書は似たようなテーマの本が乱立するこの三日坊主業界で、ほんとうに実効性のある

数すくない良書である。

 

なぜ私たちは毎回りちぎに三日坊主になってしまうのか。

そしてそれを防ぐためにはどうしたら良いのか、本書は科学的に説明している。

 

本書を読めば、なるほど~そうそう、そういうことなのね。と瞬時に得心がいく。

そして習慣化するための道筋は驚くほどシンプルで、それゆえに実行しやすい。

わたしはAmazonプライムリーディングで無料で読ませてもらったが、

本書はあまりにも素晴らしかったので紙の本を購入してしまった。

あなたがもしAmazonプライムリーディングに加入しているのなら、騙されたとおもって読んでほしい。きっとあなたも継続ができるようになるはずだ。

そうしたら、あなたの夢は半分以上、叶えられたも同然だと思うのだ。


※2021年7月現在はAmazonプライムリーディングでは対象外となっていました。

 

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書評『ノア・ノア〜タヒチ紀行』ゴーギャン著 書かれているが、書かれていない。書かれていないが、書かれている。

素晴らしく薄い本だ。

「これは紛れもなく、旅本だな。」そんな気がして、ジーパンの尻ポケットに入れて先月一人、長野県上高地へ旅行に行った。大正池の脇の遊歩道をぶらぶら歩いていると、目の前を流れる大正池の澄んだ水が、本の中の小川と重なり合う。

私の心は平静に帰った。そして、小川の冷たい水の中へ飛び込んだ時には、精神的にも、肉体的にも、限りない喜びを感じた。「冷たいだろう」と彼は言った。「いいや、ちっとも!」私は答えた。この叫び声は、今私が、私自身のうちに、あらゆる腐敗した文明と戦って、断然勝利を収めた争いの終結を告げるように思われた。

~Paul・Gauguinポール・ゴーギャン~ ~~~~~~~ ~~~~~~~ ~~~~~~

1848年6月7日 二月革命の年にパリで生まれる。

神学校に通い、航海士になり、普仏戦争に参加し、株式仲買人となり、デンマーク人女性と結婚し、5人の子供の父親となる。

趣味で絵を描いていたが、株の大暴落を経験し、勤めを辞めたことから画業に専念する。この時ゴーギャン35歳。

40歳の時、南仏アルルでフィンセント・ファン・ゴッホと共同生活をするが、口論が絶えずゴッホ錯乱。自分の左耳下部を切り取る「耳切事件」起こる。

1891年4月・西洋文明に絶望したゴーギャンは、楽園を求めて南太平洋にあるフランス領の島・タヒチに渡る。本書は43歳のゴーギャンが63日間の変化ある航海の後、タヒチの島影を視界に捉えるところから物語が始まる。

世間を捨て、家族を捨て、文明を捨ててきたゴーギャンには、傷ついた心と絵画への情熱しか残ってはいない。 サマセット・モーム『月と六ペンス』で、狂気の画家・ストリックランドのモデルとなったゴーギャンは、タヒチで何をし、何を想い、どんな感情の渦のなか大作を書き上げ、死に魅入られたのか。

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「ノア・ノア」はポオル・ゴオガンの「タヒチの画家」としての発展を物語る好箇の文献であると同時に、優れた一つの旅行記である。一番はじめに、この文章がある。また、同序文の中で、「ノア・ノアは、マオリイ語で、香気ある、芳しい、などの意味である」とも書かれている。しばらく読むと、この画家が素晴らしい感受性で世界を理解し、それを文字として残すことの出来る文章家でもあることに気づかされる。

静寂はあたりに漂っていた。岩間を通う悲しい水音のみが、沈黙の伴奏のように単調な響きを立ててはいたが。そして、このすばらしい森林の中には、この孤独と沈黙の中には、ただ私たち二人がいるだけだった。~中略~彼は、男とも女ともつかぬような柔らかな体を、まるで動物のように身軽に動かしながら私の前を歩いて行った。私は彼のうちに、この周囲にある植物の輝きを呼吸する権化をみるような気がした。そして、私を酔わす美の香が、彼から発散していた。我々の間には、単純と複雑の相互の魅力から生じる友情が、あたかも強い香気のように通い合った。

さらに読みすすめる。

ゴーギャンタヒチ人を観察する。ゴーギャンタヒチ人と仲良くなる。ゴーギャン、現地で女と別れる。ゴーギャン、新しい女が欲しくて旅に出る。ゴーギャン、新しい女と知り合う。ゴーギャン、新しい女と暮らし始める。ゴーギャン、女が戻らないと思い落ち込む。ゴーギャン、女が戻ってきたことで幸せを感じる。ゴーギャン、女にせがまれイヤリング買わされる。

・・・・・あれ、おかしいな。

一度本を閉じた。

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その日泊まるホテルに着いた。

本の残りを読み切った。テフラ(タヒチでのゴーギャンの愛人・10代)の語るタヒチの神話が印象的。タヒチに来る前、あれほどの波乱、辛酸を嘗め尽くしたゴーギャンは最後まで一言もそれについて語らなかった。また、あれほどの絵を残しながら本書では、絵を描く描写、また絵に対する思い入れが一言も書かれていない。書かれているのは、自然の美しさと、タヒチ人の純情さ、テフラとの愛に満ちた日々だけ。

家族を捨ててまで追い求めた楽園で、なぜ絵について一言も書かなかったのか?なぜ最終的にタヒチを、テフラを捨てたのか?大作『我々はどこから来たのか、我々は何者なのか、我々はどこへ行くのか』を書き上げた後、なぜ自殺未遂を起こしたのか。

考えだしたら眠れなくなってしまった。

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眠れなくなる原因は判っている。

あたまの中で、言葉が止まらなくなるからだ。悩み事や、思考が止まらずどんどん覚醒してしまう。そんな時、自分なりの対処法がある。あたまの中で「絵」を思い浮かべ、それを鑑賞するのだ。頭の中で言葉が消えていく。やっぱり、クリムトの『ダナエ』はいいなあ。

・・・ここで気づく。ゴーギャンが何も書かなかった理由を。

『絵』を構成する「線」や「色彩」、「構成」、「空間」におけるそのすべてが、画家のそれまでの生命で得たすべての『言葉』によって描かれているからだ。『言葉』では、一度に表すことの出来ない善と悪、命と死、美と醜など二元的な価値観を、『言葉』を線や色に変換させて描いた『絵』は、過程もなく、瞬時に、同時に、観察者の前に顕現させる。その圧倒的な言語量に圧倒され、観察者のもつ理解力とその速度を軽く超えてしまうことで「わからないけど物凄い」という感想が生まれる。つまり、ゴーギャンのすべてはタヒチを去る前、自殺未遂を行う前に書かれた大作『我々はどこから来たのか、我々は何者なのか、我々はどこへ行くのか』に書かれているのだ。朝起きて、ゴーギャンの絵が無性に見たくなった。何か大切なことに気づくかもしれない。

書評『一個人 落語入門』〜落語の国のハリー・ポッター

落語とは、つまるところ一人芝居だ。

すべての登場人物を、噺家はたった一人で演じ分ける。

ひとつの物語に主人公と、主要人物2~3人。

その他ゆかいな脇役たちが数名。多くて10名ほどの

人物を15分から30分くらいの間で演じ分けることになる。

噺家の個性は、千差万別百花繚乱。

生きざまそのまま、背負い込んで座布団の上にチョコンと座る。

落語は究極のシンプル芸であって必要なものは扇子(センスではない)と

手拭い、座布団とお茶ぐらいなものである。

だが、噺家が巧者であればあるほど。

何もないはずの噺家の周囲に、長屋が見えてくる。吉原が見えてくる。

満開の桜が見えてくる。お化けも、美人も。若さも。老いも。笑いも。苦悩も。喜びも。生き死にも。数限りなく、受け手によっていくらでも見えざるものが見えてくるのだ。これらのものを客に自然に見せるためには、冒頭で記した一人芝居(人物の演じ分け)がたいへん重要になってくる。全部の人物が同じような声、声量、リズム、しぐさで話していたら聞いている方も誰が誰だか訳がわからず、物語の世界にすんなりと入っていけなくなる。この演じ分けは巧者になればなるほど、瞬時であり、シリアスだ。

『代書屋』という噺がある。噺家は、黄金の60代の一人、柳家権太楼師匠だ。

「代書屋の儲かった日も同じ顔」と言って、代書屋さんはぶすっとした、暗い、横柄な男が多い。とまくらで話してから本題の噺に入っていく。

文字の書けないヒデという男が、職場に提出するための履歴書を書いてもらうため、

代書屋のところを訪れる。

ヒデ 『おーう!ちゃっ!!おーう!ちゃっ!!なんだねー。デーショ屋さん!デーショ屋さん!デーショ屋さん!!』

(間髪入れず・ぼそっと)

代書屋『デーショ屋じゃない。代書屋。』

ここが!!素晴らしいのだ。

ヒデから代書屋に切り替わる間は、ほんの一秒あるかないか。

その瞬間に元気いっぱい、大声でテンション100のヒデから、

絶対零度の代書屋まで、一瞬で切り替わる。

知性の高さから、すこし中性的な印象さえ感じさせる代書屋の人物設定。

権太楼師の緻密な落語理論から作り出されたキャラだけに一言話しただけで

ただものでない雰囲気を漂わせる。

性根の太い、血を騒がせる笑いを生む。それが権太楼落語の魅力。

上記の短文で、権太楼の魅力を表現しきった小佐田定男はただ者ではないな、と以前から気になっていたのだが、本書で彼の記事を見かけ購入。

偶然にも若き日の権太楼があこがれ、彼から『代書屋』をうけついだ、故・桂枝雀の記事だった。本書では、桂枝雀の人となりがまるで自分が枝雀と友人だったかのような気持ちで読める名文だった。ああ、眼鏡をかけて微笑む小佐田氏が、ハリー・ポッターに見えて仕方がない。

yama『versus the night 0.0』を見て、甚く感動した話。

歌手のYamaさんがたった今、YouTubeでライヴの無料配信をされていた。

素晴らしかった。ほんとうに素晴らしかった。

歌のうまさと声の良さが他のどの歌手よりも

頭抜けている。もはやもう神ですか。貴女は。

胸になにかをつめこまれてしまったようだ。

そしてそれが生あたたかい温度を持っている。

身体が浮遊している感じ。

いまだに歌声につつまれている。

生きているのは素晴らしいことだ。

これからも彼女の歌声を聴けるんだから。