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感想『人間この劇的なるもの』福田恒存著〜人間はただ、生きることを欲しているのではない。現実の生活とはべつの次元に、意識の生活があるのだ。それに関わらずには、いかなる人生論も幸福論もなりたたぬ(本書より抜粋)。エッセイのように読みやすく、哲学書のように深い、私の人生の指南書。

A:福田恆存にあった?小林秀雄の跡取りは福田恆存という奴だ。これは偉いよ。

B:福田恆存という人はいっぺん何かの用で家へ来たことがある。あんたという人は実に邪魔になる人だと言っていた。

A:あいつは立派だな、小林秀雄から脱出するのを、もっぱら心がけたようだ。

B:福田という人は痩せた鳥みたいな人でね、いい人相をしている。良心を持った鳥の様な感じだ。

A:あの野郎一人だ、批評が生き方だという人は。

 

 

上記は、昭和23年「作品」創刊号に掲載された対談で、Aが坂口安吾、Bが小林秀雄気のおけない二人はそれぞれの文学感について遠慮会釈もなく語り合っているが、福田恆存に関しては上記のように二人とも好感を示している。

 

福田恆存(ふくだつねあり)大正元年(1912年)東京本郷に生まれ、1994年に死去。2012年には生誕100周年を記念した資料展が神奈川近代文学館にて開かれた。昭和初期に活躍し、その活躍は多方面にわたる。主に、評論、戯作、演出、翻訳で優れた作品を残すが、本書はエッセイに近い評論のような形式で非常に読みやすいにもかかわらず、ひどぐエッジの効いた本である。

 

新潮文庫から出版されているシェイクスピアの作品は、すべて福田恆存の翻訳によるもので本書においても『ハムレット』や『マクベス』、サルトルの『嘔吐』など英米文学が多く引き合いに出されている。福田氏は劇団の主宰者でもあり、文学と演劇をキーワードとして、人が幸福に生きるための手引きをする。

 

人間はただ、生きることを欲しているのではない。現実の生活とはべつの次元に、意識の生活があるのだ。それに関わらずには、いかなる人生論も幸福論もなりたたぬ。

 

福田氏はまず、人間の意識について言及するのだが、その際サルトル『嘔吐』を引き合いに出し、「特権的状態」と「完璧な瞬間」というキーワードを提示する。端的に例を示すと、人が生まれる際自己の意識はそこに参加することは出来ない。なぜならまだ、もの心もついてないから。他方、人が死ぬ際はどうか。死に至る前に、少なからず準備する期間(意識)はあり、特権的状態をつくる余裕を持てる。その死を完璧な瞬間に仕立て上げることができる。「完璧な瞬間」とは、ある意味ニーチェの「永劫回帰」と類似する。

 

ところが福田氏は現実はままならぬと言う。現実において私たちは主役を演じることはできない。望むと望まぬにかかわらず、主役どころか端役でさえもままならぬと言う。

 

私たちは日々の労働で疲れてくる。時には生気に満ちた自然に眺めいりたいと思う。長雨のあとで、たまたまある朝、美しい青空にめぐりあう。だが、私たちは日の光をしみじみ味わってはいられない。仕事がある。あるものは暗い北向きの事務所に出掛けて行き、そこで終日すごさなければならない。そのあげく待っていた休日には、また雨である。親しい友人を訪ねて、のんきな話に半日をすごしたいと思う時がある。が、行ってみると、相手はるすである。そして、孤独でありたいと思うときに、かれはやってくる。

 

福田氏は言う。

 

社会が複雑になればなるほど、人は自分の役割を選べなくなる。また、私たちの行為はすべて断片で終わる。未来は常に現在の中断という形で訪れ、その変転に必然性はない。生活が断片化する。無意識のうちに不満が堆積する。

 

さらに福田氏は「個性」について言及する。

 

個性などというものを信じてはいけない。もし、そんなものがあるとすれば、それは自分が演じたい役割ということにすぎぬ。他はいっさい生理的なものだ。右手が長いとか、腰の関節が発達しているとか、鼻がきくとか、そういうことである。また、人はよく自由について語る。そこでも人々はまちがっている。わたしたちが真に求めているものは自由ではない。わたしたちが欲するのは、事が起こるべくしておこっているということだ。そして、そのなかに登場して一定の役割をつとめ、なさねばならぬことをしているという実感だ。

 

生きがいとは必然性のうちに生きているという実感から生じるという。その必然性を味わうことが生きがいだと言っているのである。

 

次に福田は必然性を宿命と置き換えて、人がそれに失敗、あるいはその予感を持つとき、自己欺瞞に走ると説明する。遺伝とか、過去における異常な体験とか、社会的欠陥などにその要因をすりかえる。呪術や神託、フロイディズムマルクシズムなどもその歴史的変遷とする。

 

必然性(宿命)を味わうために、人は自分の好みの役割を演じ日常性に歯向かうのだが、生活は常に私たちに地べたを這わせようと寝技を仕掛けてくる。私たちの「意識」はそれに負けぬために常に気をはって演じつづけ、「特権的状態」の足場を固める。そしてその予兆の際は、「完璧な瞬間」を召喚しなければならない。日常では思うようにならず「完璧な瞬間」には程遠い。ではいったいどうしたらよいのか?

 

ここで福田は「演技」することのメリットを提示する。舞台の上で役者(ハムレット)はこの先の結末を知りながら「現在」を演じる。そこに既知の影が見えてはならない。ここに役者の二重性が生じる。役者はこの場合は、物語の全体を把握しているのだが、あくまで「部分」にとどまらなければならない。この時役者は、ある意味で見て見ぬふりをしなければならない。

 

現在の私たちはどうか。あまりに全体を鳥瞰しすぎる。「部分」であることは個人の特権であるのに、人は「全体」が見えるものと錯覚している。

 

その一方で、個人は社会の部分品として歯車化していると不満を持っている。『私たちはなぜ全体が見通せるのに部分に成り下がっているのか』と。いや、本当は全体を見通せてしまったからこそ、部分に成り下がっているのだ。知識階級の陥っている不幸の源はおおかたそこらへんにある。

 

このあと福田氏は「ギリシア悲劇による死の必然化」を述べ、そこには前提として神々への信頼感があったという。自分を滅ぼすものの正体を見極めたう上で壮大に祭り上げる。その上での個人の生き方があると。

 

ここで福田氏は有力な一例を示す。ソクラテスは世界を解明するような形而上学を何一つ体系化しなかった。それは彼が、無知という段階にとどまっていなければ、全体を把握することはできないと直感的に悟っていたからである。つまり彼は無知という役を演じていたのである。前述のように、彼がなんの学問体系も残さなかったのにも関わらず、最高の智者であるプラトンアリストファネス、アルキビアデスなどが彼を師と仰いだのもそのような事情に由来するのである。

 

「部分」として「全体」を味わい尽くす。「生」きながらにして「死」を体感する。日常では困難なことだが、人は演劇や物語にそれを求める。役者や登場人物が、無知のまま、部分のままに全体(死)にぶつかっていく。

 

彼らは常に未来をしらない部分のままに善悪の行動をし、それらは全体(自然や死)の法則にしたがって報われたり、罰せられる。そこに人々は安らぎを感じる。無知が部分のままで全体に抱かれることに限りない安堵感を覚える。そこでは生と死が混然としている。観客はそこでカタルシスを疑似体験し、浄化される。

 

最後に福田氏は演劇や葬儀を「型」として把握し、そういった「型」に「自然(生死)」を落とし込むことで人は全体としての個を取り戻すのだと結んでいる。

 

生は必ず死によって正当化される。個人は、全体を、それが自己を滅ぼすものであるがゆえに認めなければならない。それが劇というものだ。そしてそれが人間の生き方なのである。人間は常にそういったふうに生きてきたし、今後もそういうふうに生き続けるであろう。

 

 

厚い雲の上で、雷がゴロゴロ鳴っているような感じの本だった。必要なのは避雷針かそれとも傘か。迷うところだが、名著であることに間違いはない。