- Book Box - 本は宝箱。

SF・幻想文学多めの読書感想サイトです。基本好きな本しか感想書かないので、書いてある本はすべてオススメです。うまくいかない時ほど読書量がふえるという闇の傾向があります。それでも基本読書はたのしい。つれづれと書いていきます。

感想『世界文学全集 短編コレクションⅠ』〜コルタサルお誕生日おめでとう。あなたの『南部高速道路』は素晴らしすぎる。

人と本とが出会うとき、多くの場合はすれ違いに終わる。

 

書店の棚から手に取ってみてパラパラめくり、そのまま棚に戻す。大抵の場合は、装丁が美しいだとか贔屓の作家だとか、書名のインパクトだとか、なんだかわからないけれどぶ厚いだとかそんなことが私たちの注意を惹く。

 

また、知り合う前にその本の噂を聞いていたり、どこかでその本の記事を読んでいるケースもある。『池澤夏樹個人編集・世界文学全集・短編コレクションⅠ』とすれ違わず出会えたのは、Kotobaとか言った(うる覚え)雑誌で全集特集を読んだためだった。

 

<全集とは、もっとも贅沢な読書>なのだそうだ。なるほど、とても腑に落ちる。私がもしちょっと小学生の夏休み時代にタイムワープできるとしたら、おそらく全集を読むだろうとなぜだか遠い目になってしまったのだ。

 

そんなわけで、私は気になる全集をさがしに書店に行った。やはり一番最初に気になるのはどう考えても国書刊行会から出ている『定本久生十蘭全集』全11巻である。だって十蘭は、ほとんど一番好きだといっても差し支えないほど私が偏愛している作家なのだ。だけども、わざわざ『全集』を購入するのだったら、雨が降ろうが槍が降ろうが何が何でも全巻読みきる!との強い意志と覚悟と財源が必要となる。一巻一万円もするのを11冊も購入するには情熱がまだすこし足りてない気持ちがする。

 

次に気になったのは車谷長吉全集』全3巻だった。車谷長吉は『赤目四十八滝心中未遂』を読んでから、いろいろとやられてしまい、一冊8千円しないのと天部が金箔されているのにキュンッとしてしまって俄然その気になった。これはもう、長吉で決まりだなと大勢が決し始めたころ、嫌いだったはずの池澤夏樹編世界文学全集のカラフルかつ斬新なデザインの本書が目に入った。

 

(閑話休題)

 

ここまで書いといて思うのだが、普通優れた文章というものは、無駄な文章は一行もなく、かと言って平凡ではなく、目の覚めるような表現、比喩、深い人間洞察を備えるものだと思うのに、わかっておいて実際わたしの書いている今までの文章は、ほとんどどうでもいいような内容で、ただ思うことをなんの推敲もなく書き散らかしているにすぎない。これでは読んでくださっている方に申し訳ないとも思うのだが、ここまで読んでしまっているあなたは、ここで悪運をつかってしまったのだから、本当に重要な肝心どころではきっと良いことが起こりますよ。それに免じて呆れるのは止めてどうかこの先も読んでください。私が今書きたいのはこういったのんべんだらりとしたどうしようもない文章なのです。

 

(閑話休題・終わり)

 

さて、・・・そうだ、そうだ。装丁の話だった。私は自分でも不思議なのだが、嫌いだったものが数年~数十年して好きになるという謎の心理が良く発生する人なのだ。本書『短編コレクションⅠ』のピンクの装丁もおっさんになってから見てみるとこれはこれで素敵に見えた。価格も3000円でこぼこでお値打ちである。だけどそれにもまして購入の一番の決め手となったのは、たっぷり20篇も世界中の短編小説が収録されているその中で、一番初めの作品がフリオ・コルタサルの『南部高速道路』だったってことだ。「俺はとっても好きだけど、君はどうだい?」ってそこらへんの道行く人に狂人のように聞いて歩きたくなるような危険なまでに不穏で、魅力のある小説なのだ。

 

『南部高速道路』フリオ・コルタサル

 

端的に言えば、渋滞があり得ないほど長引いてしまう話だ。『あり得ない』と言う言葉は、言い換えれば『現実ではない』ということと同じ意味だ。ただ、『あり得ない』に至るためにはいくつかの些細なことや、いくつかのとんでもないこと、いくつかの心とその変化、タイミングやら自然現象やら、それともちろん美しく、客観的な文章がいる。現実のルートから違和感なく幻想のルートへと車線を変更するにはむしろ科学的な視線が必要となる。そうでないと非現実が現に現実として登場人物たちを取り巻いているその世界観がリアルではなくなってしまうからだ。これは逆説的だけれども実際そうなのだから仕方がない。

 

最初のうち、ドーフィヌの若い娘はどれくらい遅れたか時間を計ってやるわと息巻いていたが、プジョー404の技師はもうどうでもいいという気持ちになっていた。

 

上記の一文は、本書の始まりの一行であると同時に、『南部高速道路』の文体の雰囲気を良く表している。まず主人公的な役回りを担うのは文中に出てくるプジョー404の技師である。つまり彼らは職業や乗っている車種で呼ばれ、名前はいつになっても明かされない。また、俯瞰的、客観的な描写から三人称的な語り口の物語であるとも言えよう。

 

文章としては、特段美しくもない冷静な文章だと思うが、誰もが経験のある「渋滞」というある種の苦行をあらわす文章としてはとても良く出来ていると思う。すでに何時間か渋滞に巻き込まれている人たちの、ある種投げやりな、ぐったりとした、泣きたいような気持を読者に思い出させるのだ。非常に現実的な不快感を思いさせることから始まる『南部高速道路』は解説から引用すると次のような時間の経過を辿っていく。

 

話は「八月のうだるような暑さ」の日曜日の午後に始まり、翌日になり、翌々日になり、そのうち時間の経過は次第に加速されて、寒さが厳しくなり、雪が降り・・・・と書けばわかるだろうが、この話の中の時間はリアリズムを大きく逸脱したファンタジーの世界なのだ。

 

 

引用の中で<ファンタジーの世界>とあるが、ここは少し語弊があるかもしれない。話の中で登場人物たちは、食料や水の確保に四苦八苦する。次第に周りのドライバーとの交流が生まれ、ただの世間話は今後の見通しへの話し合いへと変化し、汗や腋の匂いをきにしだし、グループが生まれ、リーダーが生まれる。情報を収集し、病人の看病をし、夜はこっそりと茂みに排泄をしに行く。つまり、原始的だが現実的な、生活とまでは言えないような、厳しさを伴う営みが書かれているのだ。ファンタジーという感じでもないだろう。

 

読み進めるうちに、よく知っているはずの渋滞の話であったはずの物語に、人が生きていく上で起こりうるいくつもの困難、そしてつながりが生まれていく。その過程はいつの間にか、ただの渋滞を神話へと変えていく。技師やらタウナスやらドーフィヌの若い娘、2HPの二人の尼僧やらが何か象徴化されていき、唯一性、英雄性を帯びてくる。それはおそらく、通常は車が行き交うことしか意味性のない高速道路という場所で、食事をしたり、夜を明かしたり、憎しみ合ったり、愛し合ったりすることが一つ一つ何かのトリガーになっていて、それらの積み重ねで少しずつ世界は幻想へとずれ込んでいくのだろう。そのずれ込みが、物語の最終局面で一挙に、畳みかけるように正常(現実)に戻される(落される)ような展開を見せる。そこは溢れるほどの光を浴びながら、同時に自分の影を奪い去られるような何とも言えない不安と悲しさと喜びと動揺が大波となって打ち寄せてくる。この感覚を他の小説で例えることを私は出来ない。

 

『レシタティフ~叙唱』トニ・モリスン

 

二人の女性の友情の物語だ。中程まで読んでみて、さほど印象に残らないなと雑に読んでいたのだが、いざ読み終わってみると、まるで良質の映画を見たような読後感で、今はまだ、ただ素晴らしかったとしか言えない。好みはあるかと思うがおすすめである。

 

 

『冬の犬』アリステア・マクラウド

 

もうすぐクリスマスを迎えるある朝方。予報もなしに突然積もった雪は、子供たちをとても喜ばせる。庭で笑いころげる子どもたちと、どうやら近所の家から脱走してきて、子供たちと走りまわる金色のコリー犬を見て、父親は自分の少年時代を回想していく・・・。

 

父親と、子供たちの会話のやりとりがとても自然だ。そして、楽しい。夫婦の会話はやはり自然だ。そして、こなれている。子供たちのすることはとても自然だ。そして、幼い。犬のすることは犬らしい。そして、ちょっとおバカ。何もかもが私たちの生活と近い。暖かい。それに反して、どうやらこの土地カナダ)の自然は厳しい。特に主人公である父親は少年時代死にかけている。そこにもやはり金色の犬の存在があったのだが・・。

 

本書の楽しさは特に子どもが、子どもらしく、英雄的に子どもであるということだろう。

 

 

『ささやかだけれど、役にたつこと』レイモンド・カーヴァー

 

わずか34ページの作品だけれど、およそ30ページはただつらくかなしい。残り3ページ、説明のできない感動が波のように押し寄せる。そういった類の作品だ。レイモンド・カーヴァー恐るべし。

 

『面影と連れて(うむかじとぅちりてぃ)』目取真俊

 

著者は教員をしながら沖縄の風土や歴史、戦争体験をモチーフとした小説を書いた。1997年には芥川賞、2000年には川端康成文学賞を受賞している。

 

本作品は、一人の女性が沖縄特有の方言で物語っていく、繰り返される昨日と今日の物語だ。女性の人生は本人の語りによってありのままに、まざまざと見せつけられる。だがそこに、感情の濁りは見られない。彼女はただ、思い出を語っているにすぎないのがわかる。だからこそ、私たちは彼女の人生を曇りなく見渡し、ただ眺めることができる。彼女のいうことにただ感動することができる。それは一種の正直さのもつ美徳だと思うのだ。

 

 

大変長くなりました。読んでくださった方ありがとうございました。

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