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SF・幻想文学多めの読書感想サイトです。基本好きな本しか感想書かないので、書いてある本はすべてオススメです。うまくいかない時ほど読書量がふえるという闇の傾向があります。それでも基本読書はたのしい。つれづれと書いていきます。

感想『騎士団長殺し』村上春樹著〜注意。村上春樹ファンの方は読まないでください。個人的な村上春樹氏に関するくだらない思い出話です。

 

※この文章は書評というより私個人の思い出話です。あらすじなど詳しく知りたい方は先行書評に素晴らしいものが多いのでそちらをお読みください。そして本文はあくまで個人的に感じた内容が書かれています。失礼なもの言いや、見当違いのことが書かれていても愚か者の書いたことだと笑ってお許しいただけたら幸いです。

 

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はじめて村上春樹を読んだのは、おそらく10代の半ばだったと思う。羊をめぐる冒険という、一風変わったタイトルの小説だった。衝撃を受けた。面白過ぎる。この著者は、何故このような独特な文章をかけるのだろうと不思議に思った。それまでに知っていたどの作家にも似ていない。

 

その当時私はワープロのブラインドタッチを練習していた。ちょうどいい。『羊をめぐる冒険』の文章をテキストとして使おう。そしてあわよくば、村上春樹の持つ文章の魅力の謎を解こうと思い立った。もちろん何も判らなかった。ただ、村上春樹の文章をワープロの画面に打ち込んでいると、不思議なことに、何故か自分がカッコよくなったような気がした。頭が良くなったような気がした。多感な時期に村上春樹を知ってしまったことで、私は少し空想好きな、地に足のつかない人間へと順調に歩を進めはじめたと思う。

 

ノルウェイの森』『ダンスダンスダンス』『世界の終わりとハードボイルドワンダーランド』など、その当時出ていた長編はすべて読んだ。短篇集もほとんど読んだと思う。要するにどっぷりとはまったのだ。『僕』のように考え、行動し、生活をしたいと強く願った。だがそれは生身の人間にはほとんど不可能なことだった。私はだんだんと彼(村上春樹)の小説に強い疑いを抱くようになっていった。

 

例えば、彼の書く小説の主人公は『僕』という一人称で書かれる事が多く、どの作品にもある程度の共通項が見られる。まず、『僕』は非常に女性にモテる。それも、ちょっと尋常なモテ方ではない。例をあげようとすればいくらでもあげられるが、ちょっとそれはないだろうと思わずにはいられないモテ方をする。

 

そして非常に頭が良い。才能にあふれ、仕事にも恵まれる。少しミステリアスで、独特なものの考え方をする。そして、皆から一目置かれているが、なぜ自分がそのように評価されているのかまるでわかっていない。自分は大したことのない人間だと思っている。そんな『僕』は普通ではない世界とも時として接触を果たす。「羊男」だったり「騎士団長」だったりする。そう、『僕』あるいは『私』はとことん他者(時としてそれは人間ではない)から特別扱いをされ、何かを期待され、見込まれている。

 

おかしい。私はこんなにモテたことがない。それにこんな優秀な頭脳を持っていない。と、言う事は、こんなにモテる主人公を描くこの人(村上春樹)は相当の美男なのだろうと思った。こんな面白い小説を書くのだから、頭の良いのは言わずもがなだし。と言うのも、小説の主人公は多かれ少なかれ、著者の体験を踏襲しているものだし分身のようなものだろうと思っていたから。ところが、ある日おかしなことが起こった。『村上朝日堂』のシリーズで安西水丸の描く村上春樹のイラストを見た時だった。

 

 

・・・あれ?誰だこのおにぎり君みたいなおじさんは?水丸間違ってるぞ。老眼じゃなかろうか。私は読了後もそのイラストで描かれたところの人物を頑なに村上春樹だと信じようとはしなかった。それからしばらくは意図的に村上春樹に関する情報を避けるようにしていた。だが何かの拍子に村上氏の真実の姿(要するに写真)を見てしまい、当時の私は思ったのだ。

 

 

<<詐欺じゃないか!!>>

 

 

それからはもう、彼を信じられなくなった。『ねじまき鳥』を最後に、読まなくなった。私は僕僕詐欺にかかっていたのだ。なんだかもうそれまで素敵だと思っていた村上氏の文章が全て嘘のようにかんじられた。大人になったらこんなに素敵な女性たちとのシャレオツな恋愛たちが津波のように押しよせてくるのだと、捕らぬ狸の皮算用的に、将来に壮大な夢を描いていた私のライフプランは脆くも崩壊してしまった。もう何も信じられない・・・。

 

 

季節が何回も移り変わった。長い年月が流れた。

 

 

やはり『僕』のようにはモテなかった<私>も何とか嫁さんを見つけ子供も授かった。そして私よりもはるかに読書家な嫁さんは、村上春樹氏の書いたもので出版されたものはほぼ全て読んでいるし持っている。私は半信半疑ながら、嫁さんにプレゼントして読み終えたらしい『騎士団長殺し』に恐る恐る手を伸ばした・・・。

 

 

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どうやら今回の主人公の一人称は『私』らしい。そして職業は肖像画専門の絵描きとされている。年齢は36歳。結婚しているが奥さんから離婚してほしいと言われている。別居中。ふーん。と思いながらページをめくる。わりとすぐに他の女性と肉体関係を持つ。そのことを突然さらっと書いてくる。ああ・・これこれ。この感じモロ村上春樹。そんなことを思いながら読み始める。ある変わった人物が登場する。法外な報酬を払うと言って主人公に肖像画を依頼してくる。その人は免色(メンシキ)さんと言う。この人物が非常に魅力的だ。ある意味では主人公よりも圧倒的に不思議である。他の方の感想を読んでいると彼は良くグレート・ギャッツビ-のようだと書かれている。なるほど、その通りだなあと思う。もっと言うと、村上春樹の作品全体が、ジョン・アービングとかレイモンド・チャンドラーなんかとユーモアの感じだとか、ちょっと愛嬌のあるハードボイルドっぽいところが類似しているような気もする。別に悪いことではないのだが、村上氏がご自分が好きで翻訳を手掛けているような作家達から良い意味で影響を強く受けていることが非常によくわかる書き方をされている。

 

本作の『騎士団長殺し』は集大成と絶賛されたり、今までの焼き直しだと低く見られたりと評価は二分している。だが個人的に言うと私自身は非常に楽しく読めた。持ってる武器を全て使ってきた感がある。読んでいて清々しかった。ただ出し惜しみなく村上春樹的なものを詰め込んできたわりには今一つ盛り上がりに欠ける気がしたのも確かだ。

 

小説のなかで、世俗的には疑う事なき成功者であるはずの免色さんは、ある日主人公に次のように話す。

私はそのときふとこのような思いを持ったのです。この世界で何を達成したところで、どれだけ事業に成功し資産を築いたところで、私は結局のところワンセットの遺伝子を誰かから引き継いで、それを次の誰かに引渡すためだけの便宜的な、過渡的な存在にすぎないのだと。その実用的な機能を別にすれば、残りの私はただの土くれのようなものに過ぎないのだと」

 

 

約7年ごとに長編を発表している村上氏は現在68歳になられている。本作を最後だと考えたくない気もするが、ありったけのものを投入してきた感のある本作を、もし最後の長編だと著者が決めていたのだとしたら、上記で免色さんに語らせた内容こそ、現在の村上氏が抱えていて、作品の中で免色に告白させたかった著者自身の苦悩から来るものなのかもしれない。

感想『風の歌を聴け』村上春樹著~人はそれぞれ自分だけの喪失を抱えている。何かを得るために、それを失ったのだとしても、失ったものはもう二度と戻ってくることはない。デビュー作にして傑作。21歳にして悟りきっている(僕)の、帰省先での一夏の物語。

あらすじ(本書より抜粋)

 

1970年の夏、海辺の街に帰省した(僕)は友人の(鼠)とビールを飲み、介抱した女の子と親しくなって、退屈な時を送る。

 

二人それぞれの愛の屈託をさりげなく受けとめてやるうちに、(僕)の夏はものうく、ほろ苦く過ぎさっていく。

 

青春の一片を乾いた軽快なタッチで捉えた出色のデビュー作。群像新人賞受賞。

 

感想

今の人の言葉でいったら、『エモい』というのかも知れない。全体をとおして乾いているような、もの悲しいような世界感のなかで、(それはクールをよそおっているようにも見えるし、ただの変わり者を演じているだけのようにも見える。まるで地面から数センチ、浮いて歩いているように飄々としている。

 

(僕)はよくビールを飲む。行きつけの、ジェイズ・バーと言う店で、(鼠)と名乗る友人と極度に省略された気のきいた会話をする。だが(鼠)はカッコつけているだけではない。時節とても辛そうに酒を飲む。思い悩んで、イライラしている。(僕)だけが超然としている。

 

ある日(僕)は知らない部屋で目が覚める。横には裸の女の子が寝ている。誰だか判らない。普通だったらビックリギョウテンのはずだが、その時の(僕)の様子が下記である。

 

喉の乾きのためだろう、僕が目覚めたのは朝の6時だった。他人の家で目覚めると、いつも別の体に別の魂をむりやり詰め込まれてしまったような感じがする。やっとの思いで狭いベッドから立ちあがり、ドアの横にある簡単な流し台で馬のように水を何杯か続けざまに飲んでからベッドに戻った。

 

開け放した窓からはほんのわずかに海が見える。小さな波が上がったばかりの太陽をキラキラと反射させ、眼をこらすと何隻かのうす汚れた貨物船がうんざりしたように浮かんでいるのが見えた。暑い一日になりそうだった。周りの家並みはまだ静かに眠り、聴こえるものといえば時折の電車のレールのきしみと、微かなラジオ体操のメロディーといったところだ。僕は裸のままベッドの背にもたれ、煙草に火を点けてから隣に寝ている女を眺めた。

 

 

・・・・・・・・すごい。落ちつきはらっている。仮に(僕)が女性にもてまくってこんなシチュエーションですらお茶の子サイサイ、慣れたもんですよ。的な人だっとしても、水をのんでベッドに戻ったあと、しっかりと窓からの風景を分析し、詩的に表現している。さらに視覚情報だけでなく、ラジオ体操のメロディーといった音声情報までしっかりと認識してから、ようやっと裸の女性に目を向けるのだ。うーむ。なんと言う冷静。なんという非リアル感。いくら小説上の架空の人物とはいえ、これは只者ではない。

 

わたしは一時、熱狂的に著者の作品を読んでいたので、このような表現も想定内の範疇ですが、驚かれる方もいるかもしれません。でもこれが村上春樹なのです。村上春樹の作品を読むと言うことは、このような描写を幾度となく読むということに他なりません。概して(僕)のような主人公は心理描写はほとんどされず、すべてを気の効いた一言で返すか、少しおどけて見せるか、黙ったりするだけなのです。

 

気にならない方もいると思いますが、わたしは気になるほうで長い期間、著者の作品を読まなかったのもこの違和感に耐えられなかったからです。

 

しかし、上記のような違和感は、後期の村上作品からすればかなり目立ちません。現実ばなれに感じるような描写も、あくまで現実から解離してはいない程度にはおさえられています。

 

そうすると何が起きるか。村上春樹作品のもつ本来の良さのほうが、上記で述べてきたような違和感を上回ります。要するに、村上春樹作品のもつ独特の読み味は、諸刃のつるぎのようなもので、バランスが少しでも崩れると一気に評価が分かれてしまうような、とても繊細なものだと思うのです。

 

もし私がアメリカ人で、外国人としての村上春樹の小説を読むのならば、この違和感はプラスに働くと思います。それは微妙な文化観が体感としてないからです。しかし、同国人として彼の小説を読むと、同じ文化で育っているはずなので、その世界観のあまりの違いに納得ができなくなってしまうタイミングが出てきてしまうのです。

 

話をもとに戻すと、本書『風の歌を聴け』では、上記のような違和観は比較的すくなく、人が永遠につきあいながら生きていかざるを得ない、(喪失感)をテーマに物語が書かれています。飄々としているようで、(僕)自身も言動の端々に喪失のうずきが感じられます。諦めからか、生まれつきのものからかは判りませんが、彼はその独特の思考法でそれらをハードボイルド的名言にかえ我々読者を楽しませてくれます。

 

彼の人となりと名言は、ちょっとした「そう」とか「わかるよ」とか言った片言の全体像で出来上がっていて、どれか一文を引用しようとすると途端に陳腐なものに感じてしまうから不思議です。作品全体で見たときにはじめて(僕)の虚無感、楽天的性格、退廃、詩的感覚、優しさなどが煙のようにたちのぼる仕組みになっていて、これは本当にすごいことだなと思います。『風の歌を聴け』。本当に、作品名とおりの、素晴らしい作品です。これから村上春樹を読んでみたいと思っている方にまずオススメしたい一冊です。

 

感想『ホテルニューハンプシャー上・下』ジョン・アーヴィング著〜記憶の余命。おれアイオワ・ボブみたいな爺さんになるよ。

 

わたしの記憶は、誕生した瞬間にすでに晩年である。

 

まるでカゲロウ。哀れなものだ。

 

読んだ本にしても同じことで、

 

もうすでに本書の記憶は死のうとしている。

 

よってこのおぼろげな雑文は弔辞である。

 

ホテル・ニューハンプシャー

 

生きとし生けるすべての変人たちへ。

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・絶句された。

 

 

 

ジョン=アーヴィングをまだ読んでいないなんて!!

 

わたしがボケーッとしていると、

 

これからあの楽しさを味わえるのがうらやましいと言う。

 

なるほど・・この人がいうのならそうなのだろうと読み始めた。・・・・・・・・

 

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

超面白い。

 

特に第一次ホテルニューハンプシャ-のあたりまでは、

 

絶句されたのも納得の出来だった。

 

下巻に入ってからは、少しシリアスが過ぎたというか好みの感じから外れてしまい残念なところもあったが、おおむね面白く、読んだこと自体が自分のなかで宝物となる貴重な読書体験であった。

 

紹介してくれてありがとう。

 

おれ、アイオワ・ボブみたいなじいさんになるよ。

 

映画化もされています↓

感想『世界文学全集、失踪者・カッサンドラ』フランツ・カフカ著〜それは夢の世界であった。

青年の放浪と成長の物語といえば一見よくありそうな設定なのだが、カフカの書くそれはやっぱりなんだか異質なものとなっている。突如現れるそのひずみに虚をつかれ思わず二度読みしてしまう。

別段、文章じたいに変わった印象は受けない。とても簡素で読みやすい。飾り立てた感じはないし、気どりも、優雅さも、斬新さも、別にない。多分。

おかしい。でもやっぱり変だ。カールの偏った正義感とか、賢いのか馬鹿なのかよくわからないところは、若さゆえのバランスの悪さと理解することはできるとしても。

物語の冒頭、16歳のカール・ロスマンは移民船に乗ってニューヨークへやってくる。年上の女から誘惑され関係を持ってしまったがゆえ、世間体から家を追いだされた。

前向きで、粘り強く、勤勉で、謙虚なカール。その場その場で自分なりにとっさにも物事を分析し、推測して、良いと思われる行動をとる。勇気もあって決断力もある。でもその結果選びとった行動がびっくりするくらい的はずれだったり、ありえないような現実がひょっこりと顔をだして、その美徳をことごとく空回りさせている。

未完に終わったカフカの『失踪者』は、読んだが最後、私たちの片割れである心もあてどのないカールの旅の永遠のみちづれとさせる。だけれど、この違和感に満ちた小説世界はなんとなく身に覚えがあって、先日ハッと気づいたらそれは夢の世界であった。

感想『かくも激しく甘きニカラグア』コルタサル著〜<永遠にあの6月を> 1979年6月ニカラグアにおけるサンディニスタ民族解放戦線の革命成功。後の復興と反革命勢力(コントラ)との闘いを老コルタサルがその両眼で見て、肌で感じて、紙に記したルポルタージュ。

 

 

中央アメリカの小国ニカラグアは1937年~1979年の間、アメリカの武力干渉を受けた国家警備隊を背景とした親米政権の独裁を受けていた。 ソモサ王朝と呼ばれたその政権はソモサ一家3代にわたる世襲政権でニカラグア国内総生産の約半分を一家の系列企業で独占し、反対勢力は革命軍(サンディニスタ)は虐殺、拷問し、批判的なジャーナリストは妻子もろとも誘拐した。 1972年のマグアナ大地震において首都が壊滅状態になった際には、世界中から贈られた支援物資を自身の系列企業と懐に着服し、なおかつ被災者を保護するはずの軍隊(国家警備隊)は略奪を行った。

 

1961年海をまたいだ隣国キューバの革命に影響を受け、サンディニスタ民族解放戦線(FSLN)が創設される。1960年代に2度キューバを訪問した本書著者フリオ・コルタサルは公然とフィデル・カストロを支持し、ニカラグアにも足しげく訪れた。

 

本書は1979年の革命成功、そしてニカラグアが第二のキューバになることを恐れたアメリカ・レーガン政権の絶え間ない敵視、干渉政策。反革命勢力・コントラとの内戦の日々を切り取ったルポルタージュ(現地報告)である。(以下引用)

 

同士のダビッドは教養がある繊細な男だった。彼も過去よりも未来について語りたがったが~中略~現今、自分の国で起こっていることには驚嘆しつづけているようだった。ぼくたちと同様、町や学校や商店などを見るとじつにうれしそうで、それがぼくらを感動させる。とりわけ子供たちはいたる所で笑ったり、がやがや群れていたりしていたが、笑い声がさざめき、ふざけあっている場所そのものに、ほんの四か月ほど前までは国家警備隊の制服を着た死が巡哨していたのだ。「誰も子供たちを外に出せなかった」とダビットはぼくらにいった。「よく子供たちを殺すためにだけ殺したから。殺して町内に恐怖をうえつけようとしたんだ。子供たちの多くが大人たち同様、闘うことができるとわかっていたから彼らを憎み、おびえていた。子供が遠くを見ようとしたり、実をとろうとして木に登ると、警備隊員が遠くから発砲して、落ちるのを見て楽しんでいるようなことがよくあった。それにひきかえ、見てごらん。今は・・・・・。」

 

 

本書は革命から首都マグアナの復興、政権の維持にいたる期間を、著者コルタサルがその目で見て、耳で聞いて、肌で感じた一コマ一コマのエッセイのようでもある。 猫のように飼われる虎、湖でフェリーの航行を止めてしまう巨大なニシンの群れ、識字運動に命をかける子供たち。革命後、ニカラグア初めての美術館の創設。南米の、民衆の、じりじりとした太陽の、ねっとりとした生命力が行間からにじみ出るかのようだ。

 

著者は短編の名手として名高いが、その作風は一風変わっている。『すべての火は火』などの短編。そして彼の代表作である実験長編小説『石蹴り遊び』などにその特徴が顕著で、一つの話の中に、二つの世界が一行ごとに入れ替わる形式を取っている。 また、一つの発想や想いにとらわれると一種悪魔つきのようにその考えが頭から離れず、そこから解放されるために作品を書いているとの本人談も残る。そのような傾向は本書にも随所で見られる。 一例をあげると、コルタサルがパリにもどって、自宅で農民たちが描いた絵のスライドを見ていると、花や牡牛やミニチュアのような人々が描かれた『絵』を見ているはずなのに、コルタサルが見ているスクリーンにははっきりと、額の真ん中を撃ち抜かれくっきり穴をもって目を見開いている少年や、通りで逃げ惑う人たち、台の上に素裸で寝かされ両足の間に電線をつっこまれている少女、5、6人に取り囲まれ銃を向けられている男などが写っている。そこに奥さんが来てフィルムを初めから見て「きれいなスライドが撮れたわね」とほほ笑む。 要するに、そんなものは移ってはいないのだが、コルタサルには見えてしまう。意識の世界がかなりの力をもって影響するらしい。そんな彼のことだから、革命後も『民主主義』の名のものに間接的、政治的、軍事的に圧力をかけてくるアメリカやコントラに対して激しく憤り、自己の命もかえりみず気焔をあげ、それを私たちにも促してくる。(以下引用)

 

民主主義の国々、あるいはそういわれている国々の大部分はニカラグアで現在進行中のドラマをソファに座り、手許にグラスと煙草を置いて、たいして興味のないテレビ番組を眺めるかのような態度で見ているといえよう。~中略~結局のところ誰もその活劇を眺めているソファから立ち上がろうとしないようだ。

 

 

自由と言われている世界はニカラグアを見捨て、なすがままにさせておくのだろうか?日に日にドルや装備や軍事顧問、CIAの潜入、隣接する国々への圧力という形で介入する合衆国の圧力が、民衆の主権、現在および未来における民族独自の歴史的路線を求める権利を守っている国に対して剣先の数を倍加させているのを許しておくのか?

 

 

十日前、マナグアでは十万の人々がレーガンが行った中央アメリカにおけるアメリカ合衆国の<義務>に関する厚顔無恥な演説に対して抗議した。五百人でも千人でもいい、そのような抗議を自国の合衆国大使館前で同じように行ってくれるヨーロッパ人のグループはないのか?まるで火星から届いているかのように、日々のニュースのファースト・フードを食べながら、そうしたままでいるのか?視聴者たちはもはや、ニュースと物語のフィルムとの区別がつかなくなっているのか、それともよりリアルだから物語のフィルムのほうがいいと思っているのだろうか、ということを考えつかせる。~中略~新聞といっしょに捨てられてしまうのに、こんな文を書いて何になるのだろうか?何もならない、と僧侶は考えて、わが身に火をつけるだろう。しかし真の無意味は、価値観の放棄という世界的エントロピーが最終的な勝利をおさめるのは、これらの文を書く行為をやめたときなのだ。人々の無関心の地平を切り開き続けているぼくらは大勢いる。これまでの歴史の中でしばしば起こったように、いつか手がさしのべられるだろう。言葉が現実に、活力になるだろう。

 

 

深刻かつ残虐、非人道的な現状におけるルポルタージュ(現地報告)であるのは間違いないが、コルタサルの文章は美しさと希望を感じさせる。希望自体は常に悪もふくんでいるものだが、コルタサルの次のような文章はそのような事実を忘れさせてくれる素晴らしいものだ。以下引用。

 

ぼくには革命文化が野天において飛びかう鳥の群れのように思えるのだ。群れはいつも同じなのだが、瞬間、瞬間、その模様、構成状況、飛翔のリズムが変化してゆき、群れは上昇したり下降したり、空にその曲線を描き、すばらしいスケッチをたてつづけに創作したかと思うと、消し去り、ふたたび描き始める。そしてそれは同じ群れで、この群れには同じ鳥たちがいる。それは彼らなりの鳥の文化であり、創造の自由の喜びであり、終わることのない祭りである。ニカラグアを訪問するたびごとに、ますます、より強く感じることなのだが、これが未来のニカラグア民衆の文化であろうと僕は確信している。

 

 

長くなりました。読んでくださりありがとうございました。

フリオ・コルタサルの他作品おすすめ記事はこちら↓

感想『愛しのグレンダ』フリオ・コルタサル著〜コルタサル読みはじめの幸福。恋人が寝息をたてて眠るその横で、彼は〈自分にむけて〉物語を話しだす『自分に話す物語』。

 

優しいけれどちょっと馬鹿。

 

そんな男の語る倒錯したラブストーリーってやつがあるとしたら、それは個人的にとても好きなジャンルの小説だ。いちいち主人公の言うことが共感できて、こころがリズミカルに弾みだす感覚が味わえる。

 

本書『グラフィティ』『自分に話す物語』の二編にそんな雰囲気を感じ取り、ウキウキと読み始めたが、出だしに反して物語は二転三転し、幻想、ミステリ、暴力、政治、ホラー、ドキュメント・・etc、と一筋縄ではいかないコルタサルの魔術的秀作短編集であった。

 

まさに再読ありきの味わい深さ。特にコルタサルの作品は書き出しに良いものが多く、本書では『自分に話す物語』の<それ↓ >がわたしは好きだ。引用して終わりとします。ありがとうございました。

ぼくが自分にあれこれ物語を話すのは、独りきりで寝て、ベッドがいつもより大きく冷たく感じられるときだ、でもニアガラが隣にいて、まるで彼女も自分に物語を話しているみたいに楽しげに何かをつぶやきながら眠っているときにも、ぼくは自分に物語を話す。彼女を起こして彼女の物語(たんなる寝言なのだから物語のはずはない)がどんなものなのか教えてほしいと思うことも時にはあるけれど、ニアガラは決まってくたくたに疲れて仕事から戻ってくるから、匂いのいい、ぶつぶつ言っている貝殻の中に閉じこもり、満ち足りた様子で眠り込んだばかりの彼女を起こすのは、正しいことでも立派なことでもないだろう、だから彼女を寝かせたまま、彼女が夜勤に出てしまうと突然大きくなるあのベッドに独りで寝る日のように、ぼくは自分に話をする。ぼくが自分に話す物語の内容は何でもありだけれど、ほとんどいつも主人公はぼくで・・・・・

感想『三十歳』インゲボルグ・バッハマン著〜私たちは全てを欺いている。そしてそれを社会から、人生から侮辱され続ける。

インゲボルク・バッハマン(1926~1973)。オーストリアの詩人、小説家。

1949年、23歳の時マルティン・ハイデッガーに関する論文で哲学の博士号を取得する。

学生時代パウル・ツェランと恋仲にあったことでも有名。二人の往復書簡は2008年に公表され、『バッハマン/ツェラン往復書簡 心の詩』として青土社から出版されている。

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私が最初にバッハマンを知ったのも、パウル・ツェランを通してだった。

ツェランの詩は極度に硬質で圧倒的な存在感を持っていた。当時の私にはバッハマンの名は覚えていることすら叶わなかった。

昨年になり状況は一変。彼女の短篇小説『同時に』を読む。知的すぎてよく判んないなと思いつつもとても印象に残る。

翌年(2016年)、本書『三十歳』が松永美穂の新訳で岩波文庫より刊行。半信半疑のまま読み進め、半分ほど読んだところでどうやら自分がひどくうっとりとしていることに気づく。いいじゃんとすごくいいをかなりの頻度で思っている。

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本書『三十歳』は7つの短篇小説が収録されている。

小説といっても、どの話も筋はあるようで、ない。もしくはないようで、ある。集中して読んでいてもすぐに理解が難しくなる。内容は大方暗い。

だが、紡がれている言葉のつらなりにとても美しさを感じる。こころの中で文章を読むたびに、やわらかい響き、もしくは音の流れを感じる。密度が高く、するどい言葉が集まっている。

詩的で知的で難解なもの言いをするので、こんなふうに世界と向き合っていたら正気でいることは難しいだろうと心の中では思う。でも実はそれこそが人のこころの偽らざる真実のような気もし、代弁されているような、もしくは欺いていることを侮辱されているような気がしてくる。だけどそもそも、人はその自分自身の人生から侮辱され続けるものなのかもしれない。一見わけのわからないバッハマンの小説がこころに迫るのはそれが真実に近いからだ。

バッハマンは一九七三年九月、ローマの自宅で全身にやけどを負い、それがもとで十月に亡くなった。早朝、ガスコンロでタバコに火をつけようとしたところ衣服に燃え移ったとされているが、頭がもうろうとしていて火に近づきすぎたのか、たまたま引火しやすい素材の服を着ていたのか、はたまた自殺願望があったのか、死の真相は定かではない。彼女の詩のなかに「やけどした手で火の性質について書く」というフレーズがあったことが人々の憶測を呼んだ。いずれにしても彼女は亡くなり、故郷クラーゲンフルトの墓地に埋葬されている。