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感想『かくも激しく甘きニカラグア』コルタサル著〜<永遠にあの6月を> 1979年6月ニカラグアにおけるサンディニスタ民族解放戦線の革命成功。後の復興と反革命勢力(コントラ)との闘いを老コルタサルがその両眼で見て、肌で感じて、紙に記したルポルタージュ。

 

 

中央アメリカの小国ニカラグアは1937年~1979年の間、アメリカの武力干渉を受けた国家警備隊を背景とした親米政権の独裁を受けていた。 ソモサ王朝と呼ばれたその政権はソモサ一家3代にわたる世襲政権でニカラグア国内総生産の約半分を一家の系列企業で独占し、反対勢力は革命軍(サンディニスタ)は虐殺、拷問し、批判的なジャーナリストは妻子もろとも誘拐した。 1972年のマグアナ大地震において首都が壊滅状態になった際には、世界中から贈られた支援物資を自身の系列企業と懐に着服し、なおかつ被災者を保護するはずの軍隊(国家警備隊)は略奪を行った。

 

1961年海をまたいだ隣国キューバの革命に影響を受け、サンディニスタ民族解放戦線(FSLN)が創設される。1960年代に2度キューバを訪問した本書著者フリオ・コルタサルは公然とフィデル・カストロを支持し、ニカラグアにも足しげく訪れた。

 

本書は1979年の革命成功、そしてニカラグアが第二のキューバになることを恐れたアメリカ・レーガン政権の絶え間ない敵視、干渉政策。反革命勢力・コントラとの内戦の日々を切り取ったルポルタージュ(現地報告)である。(以下引用)

 

同士のダビッドは教養がある繊細な男だった。彼も過去よりも未来について語りたがったが~中略~現今、自分の国で起こっていることには驚嘆しつづけているようだった。ぼくたちと同様、町や学校や商店などを見るとじつにうれしそうで、それがぼくらを感動させる。とりわけ子供たちはいたる所で笑ったり、がやがや群れていたりしていたが、笑い声がさざめき、ふざけあっている場所そのものに、ほんの四か月ほど前までは国家警備隊の制服を着た死が巡哨していたのだ。「誰も子供たちを外に出せなかった」とダビットはぼくらにいった。「よく子供たちを殺すためにだけ殺したから。殺して町内に恐怖をうえつけようとしたんだ。子供たちの多くが大人たち同様、闘うことができるとわかっていたから彼らを憎み、おびえていた。子供が遠くを見ようとしたり、実をとろうとして木に登ると、警備隊員が遠くから発砲して、落ちるのを見て楽しんでいるようなことがよくあった。それにひきかえ、見てごらん。今は・・・・・。」

 

 

本書は革命から首都マグアナの復興、政権の維持にいたる期間を、著者コルタサルがその目で見て、耳で聞いて、肌で感じた一コマ一コマのエッセイのようでもある。 猫のように飼われる虎、湖でフェリーの航行を止めてしまう巨大なニシンの群れ、識字運動に命をかける子供たち。革命後、ニカラグア初めての美術館の創設。南米の、民衆の、じりじりとした太陽の、ねっとりとした生命力が行間からにじみ出るかのようだ。

 

著者は短編の名手として名高いが、その作風は一風変わっている。『すべての火は火』などの短編。そして彼の代表作である実験長編小説『石蹴り遊び』などにその特徴が顕著で、一つの話の中に、二つの世界が一行ごとに入れ替わる形式を取っている。 また、一つの発想や想いにとらわれると一種悪魔つきのようにその考えが頭から離れず、そこから解放されるために作品を書いているとの本人談も残る。そのような傾向は本書にも随所で見られる。 一例をあげると、コルタサルがパリにもどって、自宅で農民たちが描いた絵のスライドを見ていると、花や牡牛やミニチュアのような人々が描かれた『絵』を見ているはずなのに、コルタサルが見ているスクリーンにははっきりと、額の真ん中を撃ち抜かれくっきり穴をもって目を見開いている少年や、通りで逃げ惑う人たち、台の上に素裸で寝かされ両足の間に電線をつっこまれている少女、5、6人に取り囲まれ銃を向けられている男などが写っている。そこに奥さんが来てフィルムを初めから見て「きれいなスライドが撮れたわね」とほほ笑む。 要するに、そんなものは移ってはいないのだが、コルタサルには見えてしまう。意識の世界がかなりの力をもって影響するらしい。そんな彼のことだから、革命後も『民主主義』の名のものに間接的、政治的、軍事的に圧力をかけてくるアメリカやコントラに対して激しく憤り、自己の命もかえりみず気焔をあげ、それを私たちにも促してくる。(以下引用)

 

民主主義の国々、あるいはそういわれている国々の大部分はニカラグアで現在進行中のドラマをソファに座り、手許にグラスと煙草を置いて、たいして興味のないテレビ番組を眺めるかのような態度で見ているといえよう。~中略~結局のところ誰もその活劇を眺めているソファから立ち上がろうとしないようだ。

 

 

自由と言われている世界はニカラグアを見捨て、なすがままにさせておくのだろうか?日に日にドルや装備や軍事顧問、CIAの潜入、隣接する国々への圧力という形で介入する合衆国の圧力が、民衆の主権、現在および未来における民族独自の歴史的路線を求める権利を守っている国に対して剣先の数を倍加させているのを許しておくのか?

 

 

十日前、マナグアでは十万の人々がレーガンが行った中央アメリカにおけるアメリカ合衆国の<義務>に関する厚顔無恥な演説に対して抗議した。五百人でも千人でもいい、そのような抗議を自国の合衆国大使館前で同じように行ってくれるヨーロッパ人のグループはないのか?まるで火星から届いているかのように、日々のニュースのファースト・フードを食べながら、そうしたままでいるのか?視聴者たちはもはや、ニュースと物語のフィルムとの区別がつかなくなっているのか、それともよりリアルだから物語のフィルムのほうがいいと思っているのだろうか、ということを考えつかせる。~中略~新聞といっしょに捨てられてしまうのに、こんな文を書いて何になるのだろうか?何もならない、と僧侶は考えて、わが身に火をつけるだろう。しかし真の無意味は、価値観の放棄という世界的エントロピーが最終的な勝利をおさめるのは、これらの文を書く行為をやめたときなのだ。人々の無関心の地平を切り開き続けているぼくらは大勢いる。これまでの歴史の中でしばしば起こったように、いつか手がさしのべられるだろう。言葉が現実に、活力になるだろう。

 

 

深刻かつ残虐、非人道的な現状におけるルポルタージュ(現地報告)であるのは間違いないが、コルタサルの文章は美しさと希望を感じさせる。希望自体は常に悪もふくんでいるものだが、コルタサルの次のような文章はそのような事実を忘れさせてくれる素晴らしいものだ。以下引用。

 

ぼくには革命文化が野天において飛びかう鳥の群れのように思えるのだ。群れはいつも同じなのだが、瞬間、瞬間、その模様、構成状況、飛翔のリズムが変化してゆき、群れは上昇したり下降したり、空にその曲線を描き、すばらしいスケッチをたてつづけに創作したかと思うと、消し去り、ふたたび描き始める。そしてそれは同じ群れで、この群れには同じ鳥たちがいる。それは彼らなりの鳥の文化であり、創造の自由の喜びであり、終わることのない祭りである。ニカラグアを訪問するたびごとに、ますます、より強く感じることなのだが、これが未来のニカラグア民衆の文化であろうと僕は確信している。

 

 

長くなりました。読んでくださりありがとうございました。

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