書評『キャッチャー・イン・ザ・ライ』JDサリンジャー著 村上春樹訳~繊細でとげとげしい。感傷的でやさしい。ちらばった未研磨の宝石のような日々。すべての大人が魅了される永遠の青春小説の金字塔。時がたち味わいが深くなったドライフルーツ。村上春樹の手にかかれば、それはもう、もぎたてのフルーツに変貌する。彼の訳業は、彼の素晴らしい作品以上にイメージにあふれている。
こうして話を始めるとなると、君はまず最初に、僕がどこで生まれたかとか、どんなみっともない子ども時代を送ったかとか、ぼくが生まれる前に両親が何をしていたかとか、その手のデイヴィッド・カッパーフィールド的なしょうもないことあれこれを知りたがるかもしれない。でもはっきり言ってね、その手の話をする気になれないんだよ。(本文より抜粋)
1984年に白水Uブックスからでた初版の野崎孝訳では上記の文章は以下のようになっている。
もしも君が、ほんとにこの話を聞きたいんならだな、まず、僕がどこで生まれたとか、チャチな幼年時代はどんなだったのかとか、僕が生まれる前に両親は何をやってたとか、そういった(デイヴィッド・カッパーフィールド)式のくだんないことから聞きたがるかもしれないけどさ、実をいうと僕は、そんなことはしゃべりたくないんだな。
上記の引用文は村上訳の『キャッチャー・イン・ザ・ライ』の冒頭文と野崎訳の『ライ麦畑でつかまえて』を比較してみたものだ。
わたしも最初は野崎訳の『ライ麦畑~』の方からこの素晴らしい物語に親しんだ。主人公のホールデン・コールフィールドは、虚無的というか厭世的というか、ニヒルなところがありつつも案外人と交流をもつところもあり、かといって馴れ合うようなこともしない。なんだかひねくれた野良猫のような人物だ。落ちこぼれのレッテルを貼られることも多いけれど、逆に目をかけられることもある。非常にセンシティブで、才気にあふれている魅力的な人物。
読みすすめていくと、いつしか彼の話し方とか考え方がなんだか面白くて、彼と一緒に、本の世界を、あっちこっち連れだってふらつき歩いている。そして気づいたら、この物語が、ホールデンと読んでいるあなたの、共有の思い出になっている。気づいたら(今のわたしのように)赤の他人に見境もなくすすめるようになってしまうのだが、ここで上記の引用文(野崎訳)を思い出してほしい。
個人的に、知的で才気にあふれていて、肝心なところでは、ひじょうに紳士的に振る舞える頭のよさを持つホールデンにしては、すこし野暮ったい印象をうける。~ならだな、~なんだな。という語尾が二つ続いているところとか、チャチな~、くだんないこと~、といった言い回しから受ける印象は、ストーリーが進むうちに明かされるホールデンの人柄とはかなりギャップがある。
村上訳ではそこのところがかなり改善され、ホールデンが本来の上品さと知的さを冒頭から取り戻している。簡単にいうと野暮ったい言い回しが洗練された青年の口調に変わっている。個人的に序文に抱いていた残念感が見事に解消され、いよっ!村上春樹!!とこころの中で勝手に合いの手?を入れながら読んでいた。。素晴らしい訳業はすでに序文から感じられたのだ。
もしあなたが野崎訳しかまだ読んでいないのだとしたら、是非この村上訳『キャッチャー・イン・ザ・ライ』を読んでほしい。きっとまた、あなたの中に親しんだ彼が現れる。以前とはまた少し味わいの変わった彼が現れる。より現代的に洗練された彼は、口の端をちょっともちあげて、あなたに言うだろう。目を輝かせながらあなたに言うだろう。彼があなたのなかに現れたのは、あなたのなかにまだ子どもだったころのあなたがいるからだと。そしてその子どもは、あなたのなかから永遠にいなくなることはないと。ホールデン・コールフィールドはあなたのなかから永遠にいなくなることはないのだと。
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