感想『悪魔の涎・追い求める男他八編』フリオ・コルタサル著〜短編小説でこれほどの傑作を私は他に知らない。日常から神話へ。孤高の傑作『南部高速道路』収録。
そして彼らはある時期になると、敵の男たちを狩りに出るが、それを花の戦いと呼んでいた。~『夜、あおむけにされて』より抜粋。
現実と異界が何の前触れもなしに入り乱れ交錯する。
第三者の目から俯瞰する現地報告のような無駄のない乾いた筆致が、妙なリアリティをもって読み手を作品世界に引きずり込む。優れた状況描写に反して、二つの世界をつなげる説明が著者の意図に基づき徹底して省かれていることで、コルタサルのつむぐ物語は極度に謎めき、到達した場所は他の作家の生み出すものから遠く離れた位置にある。好みが判れることは承知の上で『南部高速道路』だけは読むべきだとオススメする。
文章はとてもさりげなく、簡易な言葉で書かれている。しかし、物語が後半になればなるほど、読み手のこころは動的にゆさぶられる。それはおそらくコルタサルのひどく計画的なところで、頻繁に切り替わる対象人物の行動や、微細もらさない状況説明の文章がある反面、著者の考察や人物たちの内面や独白が書かれていないために、読み手は自分自身で、彼らの置かれた状況を考え、内面に気づき、その世界を積極的に味わい尽くすことが出来る。
紙の表面に印字された文字を読んでいるにすぎないはずの読み手が、気づけば恐ろしいほど深く、物語の世界観に包まれている。作品世界は私らの現実世界と同じように、その美しい自然やら気候風土を私たちにさらすだけで、他は殆んど圧倒的に不透明で、人と人とは言語の異なる国家間のように距離は遠く、こころは虚無と不安にさいなまれる。だがそれゆえに本作『南部高速道路』の感動は私らのこころにより生々しく迫ってくる。最初の一文から最後の一文に至るまでコルタサルの芸術と知性が絶え間なく鳴り響いているのを私たちは聞くだろう。
追随を許さないほどの傑作『南部高速道路』
個人的にすごく好みの『正午の島』
二つの世界が瞬間ごとに入り乱れる『すべての火は火』
これらの素晴らしい作品を理解するのに本書解説の次の引用がわたしたちの大きな助けとなる。
つまりリアリティを備えた世界がいつの間にか幻想的で非日常的なものに変わっていくというのは、単なる技巧の問題としてかたづけられるものではなく、彼が現実と夢・幻想が地続のものだと見なしているからにほかならない。コルタサルはあるところで、自分は悪夢を見たり、何かのオブセションに取りつかれると、どうしても振り払えなくなる。ただ、それを短編という形で言葉にすると呪縛から逃れられるのだが、その意味で自分にとって短編を書くというのは<悪魔祓いの儀式>のようなものであると述べている。
コルタサルの悪魔が祓われて本当に良かった。
『南部高速道路』を生んだ悪魔とコルタサルと悪魔祓いに最高の感謝をささげる。