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感想『春にして君を離れ』アガサ・クリスティ著〜ミステリーの女王アガサ・クリスティーによる非ミステリーの傑作。+愛と哀しみのコペルニクス+

娘・バーバラの看病を終えた帰路の途中、主人公ジョーン・スカダモアは砂漠の中の寂れたレストハウス(鉄道宿泊所)で雨による足止めを食らってしまう。

 

アラフィフなのにしわの一本もなく、白いものの混じらない栗色の髪、愛嬌のある碧い瞳、ほっそりとしたシルエット、要するにかなりの美人であるジョーンは、読みさしの本もなく、することと言えば散歩しかないそのレストハウスで、何日にもわたってもの思いにふけることになる。

 

弁護士である優しい夫・ロドニーとすでに自立した三人の子供たち。自分のことは後回しにし、いつでも子供と、夫のことを優先にして力を尽くしてきたことが彼女にとっての誇りと喜びだった。充実感と幸福感に包まれていたジョーン。

 

そんな彼女が足止めをくらうちょっと前、聖アン女学院時代の友人ブランチ・ハガードと偶然の再会を果たす。美少女であり、皆の憧れの的であったブランチは見る影もなく老け込んで品のない老婆となっていた。憐れみと同時に優越感に浸されていたジョーンだが、ブランチが何気なく言ったバーバラとロドニーについての言動がだんだんと彼女の心に疑惑を生み出していき、レストハウスでの彼女の何日にもわたる回想劇のきっかけとなってしまう・・・。

 

本書はミステリーの女王アガサ・クリスティーが書いた非ミステリーの傑作で、この世の中の何よりも謎に包まれている、人のこころの移り変わりを緻密に描写している意欲作でもある。

 

この不思議な読み味の小説は、そのほとんどが主人公の心の中での独白で、物語の序盤、美しく、理性的な印象のジョーンが、だんだんと読者の中でその印象が変化していき、終盤になってくるとほぼ嫌悪の情まで抱くようになるところに、著者アガサ・クリスティーの才能と深い人間理解を感じられる。

 

<道徳>とか<正義>とか<家族のため>とかいった善なるもの、大義名分の類いは、そもそも立場や損得の問題から簡単に影響を受けるし、そのための道具となりやすい一面を持つ。ジョーンもまた、夫のため、家族のためとは言いながら、結局他人を自分の得になるよう、趣味に合うよう矯正させていただけにすぎない。周りの人間や家族は、とっくにそれに気づいていて彼女のことを冷たい目で見ている。だがジョーンはそれに気付かなかった。見ないようにしていたし、自分の行動のずるさを気づかないふりをしてきた。何年も、何十年も。そのことを砂漠の真ん中の寂れたレストハウスでジョーンは気付く。夫がなぜ、ジョーンのことを時折悲しい目で見、「かわいそうなジョーン」と冗談めかして言うのかを。

 

アンチヒロインのような存在のジョーンだが、案外こんな人は世間にゴロゴロといる。大義名分という建前を表面に現しながら、あるいは発言しながら、自己の利益という本音を実現するためにこそこそと影で暗躍するのだ。このような人を身内に持ってしまった人の不幸は押して知るべしだが、案外良いこともあると思う。彼女(彼)は思うにとんでもなく優秀な<<反面教師>>となりうるのだ。彼らはエセとは言え道徳心や世間への見栄に敏感なため、めったに道を踏み外さない。ギャンブルや酒、色恋に身を滅ぼさない。損をするのが嫌なためけっこうお金を持っている。ただただ、人の気持ちを判ろうとしないだけなのだ。こんな人を親に持ったりすると、幼児にしてすでに「この人はいったい何なのだ」「人の気持ちがわからないのか。この血がぼくにも流れてるのか!」と極度に自制心の働く達観した内面を持つ人間が出来上がる。

 

ジョーンは認める「勇気」が足りなかった。

 

ロドニーは告げる「勇気」が足りなかった。

 

子どもたちは伝える「勇気」が足りなかった。

 

本書ではジョーンが自覚に至る過程において、それぞれの人物に「勇気」が足りなかったことが明らかになっていく。その反面、「勇気」に満ち溢れ辛い人生から逃げずに戦って死んでいった人物がいて、彼女がとても重要なテーマそのものとなって読者に語りかけてくる。ジョーンは恵まれない境遇において命おとしたその女性を「気の毒な人」「可哀想な人」としかとらえない反面、ロドニーは「彼女はこのうえなく勇敢だった。」と言うのだった。彼女は生前ロドニ-に向かって次のようなことを言ったのだけれど、それが判るような判らないようなセリフでとても印象に残っている。

 

クッションに頭を載せてその椅子に坐っているレスリーを見守りつつ、彼の感じた平和な、満ちたりた気持。そのときひどく唐突に彼女はいった。「あのねえ、わたし、コペルニクスのことを考えていましたの」