感想『ランボー詩集』堀口大学訳。〜永遠と太陽をつがわせる文学の非道。
文学こそがすべてなのだ、最も偉大な、最も非道な、運命的なもの。そしてそうと知った以上、他になすべきことはなかった。
上記は、『悲しみよこんにちは』で19歳にして時の人となるフランソワーズ・サガンの言葉。
彼女はランボー詩集『イリュミナシオン』を読み上記の言葉を残す。作家となる決意を固める。
翻訳者は数名おり、小林秀雄、中原中也などそうそうたるメンツだが、私のひいきは堀口大学。
それというのもある一つの詩のある一文の訳し方に大きな相違点があり、私は堀口訳でしかしっくり来ない。
ある日曜日、小田急の鵠沼海岸駅でおり、江の島まで散歩していた。時間にして15分くらい。
やけに天気のいい日で、陽射しが気持ちいい。海を見ながら歩きたいので砂浜脇の遊歩道を歩いた。気持ちよく風に吹かれて、いい気分で海を見ているうちに思った。 「ああ、ランボーの言ってたのはこれかあ」。
永遠
もう一度探し出したぞ。
何を? 永遠を。
それは、太陽と番(つが)った海だ。
待ち受けている魂よ、
一緒につぶやこうよ、
空しい夜と烈火の昼の
切ない思いを。
人間的な願望(ねがい)から
人並みのあこがれから、
魂よ、つまりお前は脱却し、
そして自由に飛ぶという・・・。
絶対に希望はないぞ、
希いの筋もゆるされぬ。
学問と我慢がやっと許してもらえるだけで・・・。
刑罰だけが確実で。
熱き血潮のやわ肌よ、
そなたの情熱によってのみ
義務も苦もなく
激昂(たかぶる)よ。
もう一度探し出したぞ。
何を? 永遠を。
それは、太陽と番った海だ。
太陽と番った海だ。この一文で、堀口訳のランボーに魅了された。目の前の海は太陽の陽射しをあびてキラキラと反射している。自然の景色はどれも美しいが、水面に陽射しが反射する様ほど、綺麗なものはないと思う。いつまでも見ていたいと思う。そこに感じてるのはやはり、「永遠」性なんだろう。目前の海と太陽と永遠性を、たった3文字の「番った」に過不足なく集約したこの一文はすごいと思う。サガンが文学を「非道」といったのもうなずける。それは他訳の~太陽ととろけた海~ではすこし弱い、硬質観がないような気がする。もっと象徴的な言葉でないと、なんかいやだ。「番った」という言葉使いは、古めかしくて、堅苦しくて、硬質で、神話調な感じさえ受ける。だからこそ「永遠」と釣り合う。心に深く残るのだ。