感想『精霊たちの家』イザベル・アジェンデ著〜まず三つ。闇の中の光の痰壺。
まず三つ。
①本書は金銭を目的として書かれたものではない。
❷わたしたち、読者の身の安全は確保されている。
③傑作である。
上記の①〜③について、順をおって記載していく。
①に関しては著者の経歴をみて、本書を読めば明らかである。本書『精霊たちの家』は、著者の母国であるチリをモデルとして展開される女系3代と強烈なエゴの持主である一人の男を軸として繰り広げられる壮大な血の物語だ。本の分厚さやでたらめな重さに反して案外詠みやすい。登場人物は多いが理解はたやすい。精霊や、予知や、テレパスなどがさらりとでてくる。ラテンアメリカの風土なのだろうか。
序盤、中盤と読み進めても読中の印象はせいぜい秀作といったところだったのだが、話が女系3代目のアルバになると一変した。それまでの民話的、幻想的な印象は影を潜め、圧倒的な現実の記述に切り替わる。ようするに恐怖政治のしかれた抑圧された状況下で大変悲惨な目に遭う。
ここにきて、小説の持つ最大の力❷が発揮される。
言ってみれば、私たち読者はわが身の安全が保証された天国のような場所で、地獄にあえぐ登場人物の境遇を読む。むろん痛みは伴わない。自分が彼(彼女)だったら耐えられるだろうか。いや、泣いて赦しをこうだろうと思う。仲間を裏切るだろう。自殺を計るだろう。気が、狂うかもしれない。いや、狂ったならば幸いだと思う。
忌み嫌っているはずの暴力を、小説として読んだ時に、読み応えがあると感じてしまった私の神経はどうかしているのだろうか。原始の時代、所有するための手段として用いられた暴力が、その活躍の場を奪われたこの平和な世の中で我々は小説の中で人を殺し、殺されることで、黒い欲情をなだめすかすのだろうか。
著者が書かざるを得なかったのがよくわかる。圧倒的な現実というものは、言葉の対極にあるものだから。闇の対極が光であることにそれは似ている。小説内の現実では、精霊たちのちからを仲立ちとして血はうけつがれ、美しい円環をなす。それはまるで、闇深く長い、入り組んだいく筋もの小道を抜けた先に唐突にあらわれた光の痰壺のようだ。