- Book Box - 本は宝箱。

SF・幻想文学多めの読書感想サイトです。基本好きな本しか感想書かないので、書いてある本はすべてオススメです。うまくいかない時ほど読書量がふえるという闇の傾向があります。それでも基本読書はたのしい。つれづれと書いていきます。

書評『ノア・ノア〜タヒチ紀行』ゴーギャン著 書かれているが、書かれていない。書かれていないが、書かれている。

素晴らしく薄い本だ。

「これは紛れもなく、旅本だな。」そんな気がして、ジーパンの尻ポケットに入れて先月一人、長野県上高地へ旅行に行った。大正池の脇の遊歩道をぶらぶら歩いていると、目の前を流れる大正池の澄んだ水が、本の中の小川と重なり合う。

私の心は平静に帰った。そして、小川の冷たい水の中へ飛び込んだ時には、精神的にも、肉体的にも、限りない喜びを感じた。「冷たいだろう」と彼は言った。「いいや、ちっとも!」私は答えた。この叫び声は、今私が、私自身のうちに、あらゆる腐敗した文明と戦って、断然勝利を収めた争いの終結を告げるように思われた。

~Paul・Gauguinポール・ゴーギャン~ ~~~~~~~ ~~~~~~~ ~~~~~~

1848年6月7日 二月革命の年にパリで生まれる。

神学校に通い、航海士になり、普仏戦争に参加し、株式仲買人となり、デンマーク人女性と結婚し、5人の子供の父親となる。

趣味で絵を描いていたが、株の大暴落を経験し、勤めを辞めたことから画業に専念する。この時ゴーギャン35歳。

40歳の時、南仏アルルでフィンセント・ファン・ゴッホと共同生活をするが、口論が絶えずゴッホ錯乱。自分の左耳下部を切り取る「耳切事件」起こる。

1891年4月・西洋文明に絶望したゴーギャンは、楽園を求めて南太平洋にあるフランス領の島・タヒチに渡る。本書は43歳のゴーギャンが63日間の変化ある航海の後、タヒチの島影を視界に捉えるところから物語が始まる。

世間を捨て、家族を捨て、文明を捨ててきたゴーギャンには、傷ついた心と絵画への情熱しか残ってはいない。 サマセット・モーム『月と六ペンス』で、狂気の画家・ストリックランドのモデルとなったゴーギャンは、タヒチで何をし、何を想い、どんな感情の渦のなか大作を書き上げ、死に魅入られたのか。

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「ノア・ノア」はポオル・ゴオガンの「タヒチの画家」としての発展を物語る好箇の文献であると同時に、優れた一つの旅行記である。一番はじめに、この文章がある。また、同序文の中で、「ノア・ノアは、マオリイ語で、香気ある、芳しい、などの意味である」とも書かれている。しばらく読むと、この画家が素晴らしい感受性で世界を理解し、それを文字として残すことの出来る文章家でもあることに気づかされる。

静寂はあたりに漂っていた。岩間を通う悲しい水音のみが、沈黙の伴奏のように単調な響きを立ててはいたが。そして、このすばらしい森林の中には、この孤独と沈黙の中には、ただ私たち二人がいるだけだった。~中略~彼は、男とも女ともつかぬような柔らかな体を、まるで動物のように身軽に動かしながら私の前を歩いて行った。私は彼のうちに、この周囲にある植物の輝きを呼吸する権化をみるような気がした。そして、私を酔わす美の香が、彼から発散していた。我々の間には、単純と複雑の相互の魅力から生じる友情が、あたかも強い香気のように通い合った。

さらに読みすすめる。

ゴーギャンタヒチ人を観察する。ゴーギャンタヒチ人と仲良くなる。ゴーギャン、現地で女と別れる。ゴーギャン、新しい女が欲しくて旅に出る。ゴーギャン、新しい女と知り合う。ゴーギャン、新しい女と暮らし始める。ゴーギャン、女が戻らないと思い落ち込む。ゴーギャン、女が戻ってきたことで幸せを感じる。ゴーギャン、女にせがまれイヤリング買わされる。

・・・・・あれ、おかしいな。

一度本を閉じた。

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その日泊まるホテルに着いた。

本の残りを読み切った。テフラ(タヒチでのゴーギャンの愛人・10代)の語るタヒチの神話が印象的。タヒチに来る前、あれほどの波乱、辛酸を嘗め尽くしたゴーギャンは最後まで一言もそれについて語らなかった。また、あれほどの絵を残しながら本書では、絵を描く描写、また絵に対する思い入れが一言も書かれていない。書かれているのは、自然の美しさと、タヒチ人の純情さ、テフラとの愛に満ちた日々だけ。

家族を捨ててまで追い求めた楽園で、なぜ絵について一言も書かなかったのか?なぜ最終的にタヒチを、テフラを捨てたのか?大作『我々はどこから来たのか、我々は何者なのか、我々はどこへ行くのか』を書き上げた後、なぜ自殺未遂を起こしたのか。

考えだしたら眠れなくなってしまった。

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眠れなくなる原因は判っている。

あたまの中で、言葉が止まらなくなるからだ。悩み事や、思考が止まらずどんどん覚醒してしまう。そんな時、自分なりの対処法がある。あたまの中で「絵」を思い浮かべ、それを鑑賞するのだ。頭の中で言葉が消えていく。やっぱり、クリムトの『ダナエ』はいいなあ。

・・・ここで気づく。ゴーギャンが何も書かなかった理由を。

『絵』を構成する「線」や「色彩」、「構成」、「空間」におけるそのすべてが、画家のそれまでの生命で得たすべての『言葉』によって描かれているからだ。『言葉』では、一度に表すことの出来ない善と悪、命と死、美と醜など二元的な価値観を、『言葉』を線や色に変換させて描いた『絵』は、過程もなく、瞬時に、同時に、観察者の前に顕現させる。その圧倒的な言語量に圧倒され、観察者のもつ理解力とその速度を軽く超えてしまうことで「わからないけど物凄い」という感想が生まれる。つまり、ゴーギャンのすべてはタヒチを去る前、自殺未遂を行う前に書かれた大作『我々はどこから来たのか、我々は何者なのか、我々はどこへ行くのか』に書かれているのだ。朝起きて、ゴーギャンの絵が無性に見たくなった。何か大切なことに気づくかもしれない。