- Book Box - 本は宝箱。

SF・幻想文学多めの読書感想サイトです。基本好きな本しか感想書かないので、書いてある本はすべてオススメです。うまくいかない時ほど読書量がふえるという闇の傾向があります。それでも基本読書はたのしい。つれづれと書いていきます。

感想『スローターハウス5』カート・ヴォネガッドJr.〜第二次世界大戦ドレスデン爆撃の被害者でもある著者の半自伝的名SF。~「もしあの時に戻れたら」と人々はよく言うが、仮に戻れたとしても、戻るのが自分なら多分何も変わらない。


スローターハウス5

「われわれにしたって同じことさ、ピルグリムくん。この瞬間という琥珀に閉じ込められている。<なぜ>というものはないのだ。」

 

<時の試練>を乗り越えた本だ。

 

不朽の名作でもあるし、主人公の人生においてもそうだ。普通の人の千倍も時に翻弄されている。読み始めてしばらくは、しょっちゅう文面に出てくる「そういうことだ」という決め文句が、村上春樹の「僕」みたいで嫌だなあと思っていたが、これは別にスカシテルわけではない。自分の誕生と死を飽きるほど繰り返してきた男の偉大な諦念からくるものだ。

 

ビリー・ピルグリムは自分の意志とは無関係に自分の過去・現在・未来を行き来する痙攣的時間旅行者だ。いつからそうなのか、なぜそうなったのかは不明。いつも行き当たりばったりなので、彼はただシドロモドロになるか黙っているかのどちらかだ。

 

ついでに言えば、彼は著者(カート・ヴォネガットJr)の半自伝的人物で第二次世界大戦下でのドレスデン爆撃の被害者。彼は長くドイツ軍の捕虜となっており当然彼のなじみのトラベル先は捕虜としての自分であることが多い。ビリー・ピルグリムの人となりと人生を紹介しよう。

 

・ぶかっこう

・背が高く、ひよわで、コカ・コーラの瓶のような体格

・ハイスクールを上位1/3に入る成績で卒業

第二次世界大戦に召集される

・歩兵としてヨーロッパ戦線におもむき、ドイツ軍の捕虜となる

・陸軍を名誉除隊となると、検眼医学校に入学

・経営者の娘と婚約し、軽い神経衰弱を患う

・復員軍人病院に入院し、ショック療法を受け退院

・フィアンセと結婚、二人の子供を授かる

・乗っていた旅客機が墜落し、ビリー以外全員死亡。

・ラジオ番組に出演し、時間内浮遊現象、宇宙人に誘拐されたことなどを話す

・講演で自らの死を予言したその日殺される

 

ざっとこんな感じの人生の断片を彼はひっきりなしに行ったり来たりする。おそらくまともな神経ではつとまらない。極端な話、トイレで用を足していて、ちょっと居眠りしたら戦場で爆撃を受けていたりする。それほど何の脈絡もないのである。出来事や行為の記載があるだけで、ビリー自身がその感情を口にすることはない。ただポロポロと涙を流したりする。飽きるほどくりかえされたことによる感情の喪失と唐突に出る涙が心の底に押し殺したビリーの悲しみを読者に伝え、読んでいて胸がつまる。

 

また、彼の特筆すべき経歴の一つに<トラルファマードル星人>に誘拐され動物園で見世物にされる経験があげられる。トラルファマードル星人のものの捉え方は、ビリー・ピルグリムの思考法に大きく影響を及ぼした。彼らとの接触を契機にして、彼は彼自身の奇妙奇天烈なその特異性にある種の了解を得るにいたる。戦争体験の闇の部分も多いのだが、対比的にユーモアあふれる文面や光さすような幸福がより印象的に記憶に残る名著。

感想『死の蔵書』ジョン・ダニング著〜本好きにはたまらない‼️古書収集家の刑事が主人公のハードボイルド&ミステリー!!私の脳内映画館では殿堂入りの大ヒット作!!

ミステリーを読むときは自分流の決めごとがある。

 

脳内で、映画館を開くか否かだ。

 

本読みの人は、誰しも一度はやっているとおもうのだが、要するに登場人物に配役をふりわけて、脳内のスクリーンで映像化するかどうかである。上映するかどうかの決め手は主人公に好感がもてるかどうかが大きい。

 

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本書主人公クリフォード・ジェーンウェイはデンヴァ―警察殺人課の巡査部長。36歳。腕ききの刑事である彼は、こよなく本を愛する蔵書家でもある。本に関する知識は古書店の店主たちも舌を巻くほどで、プロである彼らからDr J(ドクター・ジェイ)とあだ名されるほどだ。

 

『ニック・オブ・ザ・タイム』『ナインス・ゲート』のころのジョニー・デップを配役してみたらなんの違和感もなく好感が持て、ストーリーの素晴らしさも相まってあっという間に読み終わってしまった。

 

Dr J は洗練された知識人でありながら、実は非常に兇暴な一面がある。彼には以前からお互いに憎み合っている宿敵がいて、その人物を死ぬほど憎んでいる。金の力で、つかまることを免れているそのサイコパスをなんとか逮捕したいと日々思い、叶わなければ殺害したいとさえ願う。

 

物語の序盤、ハルク・ホーガンのような筋肉質の体躯を持つ筋金入りのサイコパス・ジャッキー・ニュートンとの因縁めいた緊迫感あふれる丁々発止が見られ、脳内映画は手に汗握るサスペンスが繰り広げられ、同時に本の掘り出し屋の殺害事件の犯人捜しも展開する。その過程で、古書に関する店主たちの情熱や、小説に対する熱い想いがこれでもかと放射され、本好きにとっては、ある意味体に悪いくらい面白い。

 

頭の中のスクリーンを見つめるうちに、ある一つのことに気付き始めた。私のような頭の悪い読者は、じつはミステリーを読んでいても、トリックや、犯人などは半分どうでも良いのだ。Dr J の星回りはそんな実も蓋もない真実を読者に教えてくれる。彼自身の人生が、謎なんてどうでも良いほどに面白いのだ。

 

ちなみに彼は意外にひょうきんものでもある。そして惚れっぽい。彼以上に本に詳しく、ミステリアスなリタ・マッキンリ-に恋をした彼は今までのインテリジェンスとハードボイルドが崩落するくらいの勢いで口説きにかかる。

 

「一目惚れを信じるか?」

「馬鹿な質問ね」

「じゃあ馬鹿な返事をしてくれ。」

 

「見えないのか、夜空に輝くあの星が。あれはジェーンウェイとマッキンリーの星だ。ロマンチックじゃないか。」

 

本書はどうやらシリーズ化しているらしい。脳内で会議にかける必要はもうない。続編もきっと読むし、私専用の映画館で贅沢にわたしだけのための上映をきっとしよう。Dr J の人生をこの先も見てみたいからだ。

感想『久生十蘭ジュラネスク珠玉傑作集』久生十蘭著〜幻想的で、硬質で、軽妙洒脱で、残酷。著者最大の問題作『美国横断鉄路』、構成の巧みさが光る『南部の鼻曲がり』、幻想の一つの極地『生霊』収録。

幻想的で、硬質で、軽妙洒脱で、残酷。

 

その作風は多岐にわたり、そのどれもが超高圧にして練磨されつくしている。自然描写は美しく、情感に溢れ、語りやセリフは弾むようなリズムがある。著者の持つ特異な経歴が遺憾なくその作品に反映され、他のどの作家とも異なる久生十蘭だけの華がある。

 

一癖も二癖もある海千山千の人間が、ポンコツばかりの祟り神が支配するネジの足りない町や世界で、自分の気分や哲学にしたがって手足バタバタわーわー騒ぎ、泣けや笑えやの孤軍奮闘。その結果が栄達であれ、無残な死であれ、太く、短く、パッと咲き散るのが十蘭の描く物語世界の特徴だ。

 

本書収録作品、幻想の一つの極地『生霊』・ニヒルと友情の名短編『南部の鼻曲り』・悲壮にして壮絶な残酷『美国横断鉄路』はそんな十蘭の世界観が遺憾なく反映された傑作三篇で、個人的にもんどり打ちたくなるほど好きな作品(『美国横断鉄路』に関しては好きと言ったら人格を疑われる。好きというよりも一生忘れられないと言った方がより正しい)。危険にして不穏なる魅力に溢れている。

 

まるでセザンヌの描く林檎のような存在感と、重量感を有するこの三篇は、読んだ後阿呆のように口をあけ、しばし放心状態となることは避けられない。

 

作風が暗いのかと言うとそうでもない。むしろ恬淡として明るい。岸田國士に学び、演出家として活躍もした久生十蘭ストーリーテリングの巧みさにもよるが、おそらくは彼の生み出す人間たちが、それぞれがその小説世界から期待されているところの自己の役回りをその命をもって体現しているところにあるだろう。聖人だろうが、殺人者だろうが、悩みはすれど後悔はしない。潔が良いのだ。

 

思えば現実の世界に生きる私たちも、すこし強く当たればすぐ壊れるような脆い肉体を引きずって、形而上にも形而下にも、圧倒的に不透明なこの世界で、自分の少しでも信じれるものにすがりついて、瞬間瞬間に、目の前の問題に体当たりかましながら生きているのだ。久生十蘭の渾身の体当たりである彼の作品たちに、どうしようもなく惹かれるのは思えば当たり前のことなのだろう。

 

久生十蘭の過去記事はこちら↓

 

konkichi.hatenablog.jp

 

konkichi.hatenablog.jp

 

感想『悪魔の涎・追い求める男他八編』フリオ・コルタサル著〜短編小説でこれほどの傑作を私は他に知らない。日常から神話へ。孤高の傑作『南部高速道路』収録。

 

そして彼らはある時期になると、敵の男たちを狩りに出るが、それを花の戦いと呼んでいた。~『夜、あおむけにされて』より抜粋。

 

現実と異界が何の前触れもなしに入り乱れ交錯する。

 

三者の目から俯瞰する現地報告のような無駄のない乾いた筆致が、妙なリアリティをもって読み手を作品世界に引きずり込む。優れた状況描写に反して、二つの世界をつなげる説明が著者の意図に基づき徹底して省かれていることで、コルタサルのつむぐ物語は極度に謎めき、到達した場所は他の作家の生み出すものから遠く離れた位置にある。好みが判れることは承知の上で『南部高速道路』だけは読むべきだとオススメする。

 

文章はとてもさりげなく、簡易な言葉で書かれている。しかし、物語が後半になればなるほど、読み手のこころは動的にゆさぶられる。それはおそらくコルタサルのひどく計画的なところで、頻繁に切り替わる対象人物の行動や、微細もらさない状況説明の文章がある反面、著者の考察や人物たちの内面や独白が書かれていないために、読み手は自分自身で、彼らの置かれた状況を考え、内面に気づき、その世界を積極的に味わい尽くすことが出来る。

 

紙の表面に印字された文字を読んでいるにすぎないはずの読み手が、気づけば恐ろしいほど深く、物語の世界観に包まれている。作品世界は私らの現実世界と同じように、その美しい自然やら気候風土を私たちにさらすだけで、他は殆んど圧倒的に不透明で、人と人とは言語の異なる国家間のように距離は遠く、こころは虚無と不安にさいなまれる。だがそれゆえに本作『南部高速道路』の感動は私らのこころにより生々しく迫ってくる。最初の一文から最後の一文に至るまでコルタサルの芸術と知性が絶え間なく鳴り響いているのを私たちは聞くだろう。

 

追随を許さないほどの傑作『南部高速道路』

 

個人的にすごく好みの『正午の島』

 

二つの世界が瞬間ごとに入り乱れる『すべての火は火』

 

これらの素晴らしい作品を理解するのに本書解説の次の引用がわたしたちの大きな助けとなる。

 

つまりリアリティを備えた世界がいつの間にか幻想的で非日常的なものに変わっていくというのは、単なる技巧の問題としてかたづけられるものではなく、彼が現実と夢・幻想が地続のものだと見なしているからにほかならない。コルタサルはあるところで、自分は悪夢を見たり、何かのオブセションに取りつかれると、どうしても振り払えなくなる。ただ、それを短編という形で言葉にすると呪縛から逃れられるのだが、その意味で自分にとって短編を書くというのは<悪魔祓いの儀式>のようなものであると述べている。

 

コルタサルの悪魔が祓われて本当に良かった。

『南部高速道路』を生んだ悪魔とコルタサルと悪魔祓いに最高の感謝をささげる。

 

感想『パリ・ロンドン放浪記』ジョージ・オーウェル著〜全体主義的な管理社会を描いた傑作『1984年』で知られるジョージ・オーウェルのデビュー作。みずから浮浪者となり最底辺生活者の日々を生きいきと描き切った意欲作。

原題は『Down and Out in Paris and London』。文字通り直訳すると『パリ・ロンドン貧乏記』だとか『パリ・ロンドンどん底生活』などのほうが正しいようで、オーウェル自身の体験した底辺生活を悲喜こもごもに書き記したルポルタージュ(現地報告)のような内容。

 

20世紀初頭のパリは失業者や浮浪者で溢れ、著者が体験する皿洗いや浮浪者体験は奴隷のような勤務体系に不潔極まりない安宿体験の連続である。つまりは<貧乏>と<人間>と<友情>の物語で、彼らは頻繁に失業する、食い詰める。

 

著者オーウェルはそれらを客観的に受け止め、冷静に分析し、正統に悲嘆にくれる。彼は貧に落ちても誠実な人柄で、罵倒と喧騒のパリで友人たちと小銭単位の金策に右往左往する。質屋では不当に値をたたかれ、給料は搾取され、金もないのに欲に目がくらみ詐欺にあう。

 

常時すきっ腹をかかえ、何日も食事をとっていない彼らは、ただ「食べる」という目的を果たそうとする野生の獣とさほど変わらない。エサがなければイライラもするが、四肢にみなぎる力は生きることのよろこびで溢れている。つまりこの物語は底抜けに明るいのだ。獣と違い直接食う食われるの関係性はないものの、「金」というある種毒物に侵されたパリという草むらで、アリだろうがキリギリスだろうがみなそれぞれのすきっ腹と二人三脚のドタバタ劇を繰り広げている。

 

それにしてもオーウェルは人をよく見ている。とりまく世間は貧しいがそれだけそこにいる人間たちは本性がむき出しになっている。人間、人間、人間・・・人間。

 

<傑作>だ。

 

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パリ、コックドール街、午前七時。

 

街路からのあえぐような罵倒の連続。わたしのホテルの向かいで小さなホテルをやっているマダム・モンスが、舗道へ出てきて四階の泊り客にどなっている。裸足の足に木靴をひっかけた、ざんばら髪姿だ。

 

マダム・モンス

「淫売!あばずれ!南京虫を壁紙の上でつぶすなって、何度言ったらわかるんだよ。このホテルを買っちゃったとでも思ってんのかい。どうして他の人みたいに、窓から外へ捨てないんだよ?スベタ、淫売!」

 

四階の女

「クソババア!」

 

これで四方八方の窓がパッとあくと、街路の半分が喧嘩の仲間入りをして、ありとあらゆる罵声の大合唱となる。だが、十分後には急にシンとなった。騎兵隊の行列が通って、これを見物するために全員が黙ったのだ。こんな情景を描くのは、多少ともコックドール街の気風をわかってもらうためだ。ここには、喧嘩しかないというわけではないーだが、少なくとも一回、こういう怒鳴りあいなしで午前中が終わることはまずないのだ。

 

感想『春にして君を離れ』アガサ・クリスティ著〜ミステリーの女王アガサ・クリスティーによる非ミステリーの傑作。+愛と哀しみのコペルニクス+

娘・バーバラの看病を終えた帰路の途中、主人公ジョーン・スカダモアは砂漠の中の寂れたレストハウス(鉄道宿泊所)で雨による足止めを食らってしまう。

 

アラフィフなのにしわの一本もなく、白いものの混じらない栗色の髪、愛嬌のある碧い瞳、ほっそりとしたシルエット、要するにかなりの美人であるジョーンは、読みさしの本もなく、することと言えば散歩しかないそのレストハウスで、何日にもわたってもの思いにふけることになる。

 

弁護士である優しい夫・ロドニーとすでに自立した三人の子供たち。自分のことは後回しにし、いつでも子供と、夫のことを優先にして力を尽くしてきたことが彼女にとっての誇りと喜びだった。充実感と幸福感に包まれていたジョーン。

 

そんな彼女が足止めをくらうちょっと前、聖アン女学院時代の友人ブランチ・ハガードと偶然の再会を果たす。美少女であり、皆の憧れの的であったブランチは見る影もなく老け込んで品のない老婆となっていた。憐れみと同時に優越感に浸されていたジョーンだが、ブランチが何気なく言ったバーバラとロドニーについての言動がだんだんと彼女の心に疑惑を生み出していき、レストハウスでの彼女の何日にもわたる回想劇のきっかけとなってしまう・・・。

 

本書はミステリーの女王アガサ・クリスティーが書いた非ミステリーの傑作で、この世の中の何よりも謎に包まれている、人のこころの移り変わりを緻密に描写している意欲作でもある。

 

この不思議な読み味の小説は、そのほとんどが主人公の心の中での独白で、物語の序盤、美しく、理性的な印象のジョーンが、だんだんと読者の中でその印象が変化していき、終盤になってくるとほぼ嫌悪の情まで抱くようになるところに、著者アガサ・クリスティーの才能と深い人間理解を感じられる。

 

<道徳>とか<正義>とか<家族のため>とかいった善なるもの、大義名分の類いは、そもそも立場や損得の問題から簡単に影響を受けるし、そのための道具となりやすい一面を持つ。ジョーンもまた、夫のため、家族のためとは言いながら、結局他人を自分の得になるよう、趣味に合うよう矯正させていただけにすぎない。周りの人間や家族は、とっくにそれに気づいていて彼女のことを冷たい目で見ている。だがジョーンはそれに気付かなかった。見ないようにしていたし、自分の行動のずるさを気づかないふりをしてきた。何年も、何十年も。そのことを砂漠の真ん中の寂れたレストハウスでジョーンは気付く。夫がなぜ、ジョーンのことを時折悲しい目で見、「かわいそうなジョーン」と冗談めかして言うのかを。

 

アンチヒロインのような存在のジョーンだが、案外こんな人は世間にゴロゴロといる。大義名分という建前を表面に現しながら、あるいは発言しながら、自己の利益という本音を実現するためにこそこそと影で暗躍するのだ。このような人を身内に持ってしまった人の不幸は押して知るべしだが、案外良いこともあると思う。彼女(彼)は思うにとんでもなく優秀な<<反面教師>>となりうるのだ。彼らはエセとは言え道徳心や世間への見栄に敏感なため、めったに道を踏み外さない。ギャンブルや酒、色恋に身を滅ぼさない。損をするのが嫌なためけっこうお金を持っている。ただただ、人の気持ちを判ろうとしないだけなのだ。こんな人を親に持ったりすると、幼児にしてすでに「この人はいったい何なのだ」「人の気持ちがわからないのか。この血がぼくにも流れてるのか!」と極度に自制心の働く達観した内面を持つ人間が出来上がる。

 

ジョーンは認める「勇気」が足りなかった。

 

ロドニーは告げる「勇気」が足りなかった。

 

子どもたちは伝える「勇気」が足りなかった。

 

本書ではジョーンが自覚に至る過程において、それぞれの人物に「勇気」が足りなかったことが明らかになっていく。その反面、「勇気」に満ち溢れ辛い人生から逃げずに戦って死んでいった人物がいて、彼女がとても重要なテーマそのものとなって読者に語りかけてくる。ジョーンは恵まれない境遇において命おとしたその女性を「気の毒な人」「可哀想な人」としかとらえない反面、ロドニーは「彼女はこのうえなく勇敢だった。」と言うのだった。彼女は生前ロドニ-に向かって次のようなことを言ったのだけれど、それが判るような判らないようなセリフでとても印象に残っている。

 

クッションに頭を載せてその椅子に坐っているレスリーを見守りつつ、彼の感じた平和な、満ちたりた気持。そのときひどく唐突に彼女はいった。「あのねえ、わたし、コペルニクスのことを考えていましたの」

 

感想『石原吉郎詩文集』石原吉郎著〜+人が言葉をすてる時、クラリモンドが現れる。+シベリア抑留の被害者である著者が失った人間性を取り戻すために綴った詩の数々。それは悲痛でありながらも人間の気高さを想起させる。

敗戦後、石原吉郎ソ連の収容所で反ソ・スパイ行為の罪で重労働25年の判決を受ける。俗にいう<シベリア抑留>の被害者の一人だ。厳寒のシベリヤで粗末な衣服しか与えられず、足取りが遅れればすぐに死が待ち受ける死の労働を彼らは強いられた。

 

第二次世界大戦が終わって十年の後、石原吉郎は突如あらわれた。それまでも戦時体験を背景として詩作する詩人はいたのだが、石原は彼らとは一線を画していた。石原には戦争を、収容体験をすぎたこととしてみてはいなかった。彼はいまだに収容所から抜け出てはいなかった。いや、むしろ抜け出ることを拒絶していたかのような感じを受ける。まるで殉教者のようなその姿勢は、本書収録の散文『ペシミストの勇気』に登場する「鹿野武一」と同じ姿勢を石原が有していることに他ならない。

 

石原と同じ25年因「鹿野武一」は、昭和27年5月ハバロフスク市の第六収容所で、とつぜん失語症に陥ったように沈黙し、その数日後に絶食を始めた。絶食は誰にも知らされず始められたため、周囲が気づいた時にはすでに二日が経過していた。また、抗議として行われたものでもないため、鹿野は通常の労働も行っていた。彼は進んで死の危険の高い位置を自らにない絶食状態のまま地べたに這いずり労働をつづけた。ようやく彼の異変に気付いた一部のものは、大きな衝撃を受けた。収容所では、『他人よりもながく生きのこる』ことが個々の常識となっており、そのために行われることに彼らは麻痺することで目をつぶっていたからだ。

 

石原は、鹿野が絶食して四日目。いやいやながら彼のもとを訪ねおれも絶食するぞとだけいって作業に出た。その日の夜、鹿野はめずらしく優しい表情で石原をたずね絶食の理由を話す。だがそれから鹿野はよりいっそう殻にこもり、収容所側も気づくところとなる。彼らはこれを一種の抗議ととらえ尋問を始める。彼らは最後は根負けし、「人間的に」話そうと態度をやわらげる。これは、こちらも追及はしないから、「協力」してくれということである。鹿野は以下のように答えた。

 

もしあなたが人間であるなら、私は人間ではない。もし私が人間であるなら、あなたは人間ではない。

 

鹿野のこの姿勢は、誰も救うことはない。救えるならば、ペシミストとしての彼の『位置』の確かさのみである。おそらく石原の詩においての収容所体験の反映も、ただその『位置』を明確にすることにおいてのみ昇華されるものである。

 

石原ら収容者は、往々にして皆「失語状態」に陥る。目の前の悲惨を「認識」しないための第一段階として言葉を捨て去るのである。言葉をなくした彼らは、苦しみを言葉によって「追及」していくことができない。石原は終戦後、言葉を回復していくにつれて認識できていなかった苦しみを再体験していくこととなる。おそらくそれは「詩」という形で吐き出さなければ、かかえきれないほどの重みだったのだろう。以下で紹介する「さびしいといま」のように比較的具体的なものもあれば、「自転車にのるクラリモンド」のような抽象的なものもある。

 

それらの詩は、ただ暗く悲しいだけの詩ではない。地獄のような環境をくるりと鮮やかに反転させる人間の強さを感じる。命と世界がむき出しで対峙する、奇跡のような、詩。「さびしいといま」、「自転車に乗るクラリモンド」は私の一番好きな詩で多分この先も変わらない。

 

『さびしいと いま』

 

さびしいと いま

いったろう ひげだらけの

その土堀にぴったり

おしつけたその背の

その すぐうしろで

 

さびしいと いま

いったろう

そこだけが けものの

腹のようにあたたかく

手ばなしの影ばかりが

せつなくおりかさなって

いるあたりで

 

背なかあわせの 奇妙な

にくしみのあいだで

たしかに さびしいと

いったやつがいて

たしかに それを

聞いたやつがいるのだ

 

いった口と

聞いた耳とのあいだで

おもいもかけぬ

蓋がもちあがり

冗談のように あつい湯が

ふきこぼれる

 

あわててとびのくのは

土堀や おれの勝手だが

たしかに さびしいと

いったやつがいて

たしかに それを

聞いたやつがいる以上

あのしいの木も

とちの木も

日ぐれもみずうみも

そっくりおれのものだ

 

 

 

『自転車にのるクラリモンド』

 

自転車にのるクラリモンドよ

目をつぶれ

 

自転車にのるクラリモンドの

肩にのる白い記憶よ

目をつぶれ

 

クラリモンドの肩のうえの

記憶のなかのクラリモンドよ

目をつぶれ

 

 目をつぶれ

 

 シャワーのような

 記憶のなかの

 赤とみどりの

 とんぼがえり

 顔には耳が

 手には指が

 町には記憶が

 ママレードには愛が

 

そうして目をつぶった

ものがたりがはじまった

 

 自転車にのるクラリモンドの

 自転車のうえのクラリモンド

 幸福なクラリモンドの

 幸福のなかのクラリモンド

 

そうして目をつぶった

ものがたりがはじまった

 

町には空が

空にはリボンが

リボンの下には

クラリモンドが