感想『一文物語集』飯田茂実著〜同僚たちと花見の席で大騒ぎをしている最中にふと、自分が前世でこの樹のしたへ誰かを殺して埋めたことを想い出した。(本文より抜粋)
1行から4行ほどの文章で、一つの物語が始まり、完結する。文字数が少ないので、つかわれる一文字一文字の硬度は高くなり、ひとつの文節が持つイメージ量は必然それなりの大きさが必要となってくる。足りない情報は、読者が勝手にイメージすることで埋め、物語をなかば共犯的に作り上げていく楽しみを感じるようになる。
休日に家族を連れて入った映画館で偶然、若いころ同棲していた少女が女優として出演している映画を見て以来、毎日会社をさぼって映画館へ行き、ぼんやりとその映画ばかり観ている。
立派に物語になっている。時代は多分現代にほど近く、子供連れで映画に行く年代20代後半以降の男性か。以前同棲していたその女性に想いが残っているのかもしれない。でもこれらの情報は、直接的に記載されているものではない。読み手が勝手に想像して付け足している。読み手によって幾重にも変化する。
その素性の知れない美貌のモデルが息を引き取ると同時に、生前みずから予言していたとおり、彼女を描いたいくつもの肖像画は皆、それぞれの置かれている場所で、紫色の炎を吹いて燃え始めた。
その場面が頭に浮かんでくる。一幅の絵のようだ。良い物語が持つ、映像変換率が非常に高い。「どんな女だ、そいつはっ」て聞きたいのだが、それを満たしてくれるのは自分の想像力に頼るしかない。影響されて、自分自身の物語ができそうだ。
タイトルを含め、上記三つの引用文は主語が欠けているため、自分自身を主人公として物語を味わうこともできる。解決のある文章でもなく、すべて進行形であるところも良い。ここから先は私や、あなたにゆだねられている。全部で333の文で333の世界が描かれている。最後にあと二つ。
遠く離れた国の女なのだからと高をくくって、別れぎわに、いつでも気が向いたら会いにいらっしゃいと言ったところ、女は空間の歪みを利用して、時と所を選ばず普段着で姿を現す。
名高い巫女の住む岩山へ、多くの男たちがはるばる危険を顧みずにやってきては、消してしまいたい過去の記憶を口移しで吸い取ってもらっている。
いいな。俺も吸い取ってもらいたい。
感想『ランボー詩集』堀口大学訳。〜永遠と太陽をつがわせる文学の非道。
文学こそがすべてなのだ、最も偉大な、最も非道な、運命的なもの。そしてそうと知った以上、他になすべきことはなかった。
上記は、『悲しみよこんにちは』で19歳にして時の人となるフランソワーズ・サガンの言葉。
彼女はランボー詩集『イリュミナシオン』を読み上記の言葉を残す。作家となる決意を固める。
翻訳者は数名おり、小林秀雄、中原中也などそうそうたるメンツだが、私のひいきは堀口大学。
それというのもある一つの詩のある一文の訳し方に大きな相違点があり、私は堀口訳でしかしっくり来ない。
ある日曜日、小田急の鵠沼海岸駅でおり、江の島まで散歩していた。時間にして15分くらい。
やけに天気のいい日で、陽射しが気持ちいい。海を見ながら歩きたいので砂浜脇の遊歩道を歩いた。気持ちよく風に吹かれて、いい気分で海を見ているうちに思った。 「ああ、ランボーの言ってたのはこれかあ」。
永遠
もう一度探し出したぞ。
何を? 永遠を。
それは、太陽と番(つが)った海だ。
待ち受けている魂よ、
一緒につぶやこうよ、
空しい夜と烈火の昼の
切ない思いを。
人間的な願望(ねがい)から
人並みのあこがれから、
魂よ、つまりお前は脱却し、
そして自由に飛ぶという・・・。
絶対に希望はないぞ、
希いの筋もゆるされぬ。
学問と我慢がやっと許してもらえるだけで・・・。
刑罰だけが確実で。
熱き血潮のやわ肌よ、
そなたの情熱によってのみ
義務も苦もなく
激昂(たかぶる)よ。
もう一度探し出したぞ。
何を? 永遠を。
それは、太陽と番った海だ。
太陽と番った海だ。この一文で、堀口訳のランボーに魅了された。目の前の海は太陽の陽射しをあびてキラキラと反射している。自然の景色はどれも美しいが、水面に陽射しが反射する様ほど、綺麗なものはないと思う。いつまでも見ていたいと思う。そこに感じてるのはやはり、「永遠」性なんだろう。目前の海と太陽と永遠性を、たった3文字の「番った」に過不足なく集約したこの一文はすごいと思う。サガンが文学を「非道」といったのもうなずける。それは他訳の~太陽ととろけた海~ではすこし弱い、硬質観がないような気がする。もっと象徴的な言葉でないと、なんかいやだ。「番った」という言葉使いは、古めかしくて、堅苦しくて、硬質で、神話調な感じさえ受ける。だからこそ「永遠」と釣り合う。心に深く残るのだ。
感想『一九八四年』ジョージ・オーウェル著〜蟻のウインストン・海のオブライエン
彼のやろうとしてしていること、それは日記を始めることだった。違法行為ではなかったが、しかしもしその行為が発覚すれば、死刑か最低二十五年の強制労働収容所送りになることはまず間違いない。~中略~ペン先をインクにつけた彼は一瞬たじろいだ。戦慄が体内を走ったのだ。紙に文字を残すということは運命を決めるような行為だった。ちいさくぎこちない文字で彼は書いた-一九八四年四月四日-椅子の背に身体をもたせる。どうしようもない無力感に襲われていた。まず何より、今年がはたして一九八四年なのかどうか、まったく定かではない。(本書より抜粋)
ビッグプラザーが支配するこの世界では、人々は厳しく管理されている。ウインストン・スミスの部屋にも<テレスクリーン>という高機能の監視機器が設置され、その発言、表情、心拍数など恐ろしいほど微細な点まで朝から晩まで監視されている。
この世界は貧しい。チョコレートは配給制(週に20g)だし、砂糖やコーヒーは貴重品で皆、まずい代用品で我慢しているが、それでさえ手に入らない。ウインストンは6週間も同じヒゲ剃りの刃を使っている。
ウインストンは疑問を持っている。<この世界は以前からこんなに貧しかっただろうか?><俺のようにこの世界がおかしいと思ってる奴はいないのか?>。だがこの世界では党に対して、世界に対して疑問を持つことは禁じられている。党の方針に批判的な顔つきをしただけで<表情罪>という罪名で投獄されることもあるのだ。
ウインストンは党員だ。彼の仕事は歴史の改ざんで、その内容はほとんど不条理の領域だ。たとえば党が何年もAという他国と戦争をしている。だがある日突然、「わが党が戦っているのはB国である」と発表する。それだけでなく、「A国と戦っていたという事実はない。A国はここ10年の間、同盟国として互いに助け合ってきた」とも言う。
その場合、人々は「それ、おかしいだろ!!」とは口が裂けても言えない。言えないどころか、表情にすら、心臓の鼓動にすらその違和感を表してはならない。高機能のテレスクリーンは町中いたるところに配置されているのだ。無条件に信じ込まなければならない。
変更前の記載をすべてデータから抹消、あるいは書き換えることがウインストンの仕事だ。改ざんの証拠となるものはすぐに<記憶穴>に放り込み焼却処分する。政治犯はすぐに<非在人間>として始末され、その存在した事実について語ることも出来ない。党のいうことが現在であり未来であり、過去である。そこに真実があるかどうかは、この世界で生きぬくためには大した問題ではない。
日記を書き始めたウインストンは、日々の暮らしを警戒の中に生きていた。<思考警察>におびえ、おそらくその一味であろうと思っていた黒髪の女性から、テレスクリーンの死角をついてすれ違いざまに小さな紙切れを渡される。そこには、大きくて稚拙な文字でこう書いてある。-あなたが好きです-。
ここから先、それまで抑圧下のもとでほそぼそと生きてきたウインストンは、その反動だろうか。嘘のように大胆になっていくのだがそこらへんのことはここでは書かない。海の上にたまたま落ちた一枚の木の葉。その上にたまたま載っていた一匹のアリ。それがウインストンだ。凪いでいる時はのんきに見えたとしても、その運命は決まっている。
奇しくも本書ではそのアリの呑まれる様を読者はアリ自身として体験することになる。それは痛くて、苦しくて、悲しくて、怖くて、死にたくなるほどの恐怖と絶望だ。読み終えたとき、後味の悪さにげんなりしてしまったが、どうやら本書は私の心に抜けることのない釘を打ち込んだようだ。抜きたくても抜けないこの釘こそが本書が名作たる由縁なのだろう。
感想『ユービック』フィリップKディック著~どんでん返しありの傑作SFサスペンス。無類の面白さ&無一文で世界を救う男ジョー・チップのハードボイルド(サイキック)ワンダーランド。
まず結論からいうと、相当面白かった。
著書の『アンドロイドは電気羊の夢をみるのか』を読んだときにも、そのあまりの面白さにぶっ飛んだ記憶があるのだが、今回はそれ以上にぶっ飛んだ。
主人公のジョー・チップは、不活性者(反超能力者)側の検査技師で、知人のスカウトマンがつれてきたある能力者と知り合うことで、物語が急転していく。彼女の不活性の能力はプレコグ(未来予知者)の能力を無効にできるもので、それはある意味過去を変える能力でもあった。
この破格の能力を持った若く美しい女性パット・コンリーがこの素晴らしい物語に強烈なサスペンスの要素を持ち込んでいる。それと、ジョー・チップたち反超能力者集団の精鋭メンバーたちは劣勢につぐ劣勢で、周囲の世界と自分達が謎の能力によって終始攻撃されている。
なおかつジョー・チップときたら、反超能力者集団のリーダーとして頑張らなければならないのに、コーヒー一杯も買えないほどの金欠で、何をするにも、どこに行くにもお金がなくて、いらぬ苦労をしている(まあこれは、この世界の設定も関係しているのだが)。
さらに、時節しつこいくらいに出てくる(ユービック)という謎の言葉。何が真実で何が虚構なのか、だれが味方でだれが敵なのか。金欠だけどハードボイルド、行動力はあるが若干情緒不安定なジョー・チップがこの謎を解き明かし、世界を救うことができるのか。ワクワクハラハラしながらの一気読みでした。あ~、面白かった!!
幻想文学の名手フリオ・コルタサルのおすすめ短編小説ランキング 10選。
空気のように軽いコルタサルの文章は、強烈な力で吹きつけて我々の心にイメージと幻想をかき立てる。・・・・・・・オクタビオ・パス『対岸』水声社より抜粋
コルタサルが遺してくれたのは、彼の思い出と同様に色褪せることのない美しさを備えた芸術作品だ。・・・・・・・・ガブリエル・ガルシア・マルケス、『八面体』水声社より抜粋
目次
4.まとめ。
1 フリオ・コルタサルとは
アルゼンチンの小説家フリオ・コルタサル(1914年~1984年)は、『石蹴り遊び』などの優れた長編小説を残しました。それに加え、短編小説にも優れた作品が多く、今もなお熱心なファンが多い作家の一人です。
ベルギーに生まれ、アルゼンチン、パリと拠点を変えながら作家としての活動を続けてきたコルタサルの作品には、ラテンアメリカ文学のもつマジックリアリズムも、フランス文学のもつ幻想性も備わっています。
そこに彼のキャリア(教員、詩人、ジャーナリスト、政治的活動家)も加わって、明晰でありながらも不可思議な、異質でありながらもクールな独特の読み味をもつ秀作をいくつも排出しています。
2 コルタサルお勧め短編小説ランキング10選。
1位
『南部高速道路』
★10(個人的好み度数です。★10が満点です)
いつの間にかシフトされている非日常の世界。そこで繰り広げられる生活という名の戦い。
今まで私が読んできたすべての短編小説のなかでも、トップスリーには入るであろう傑作です。一種のサバイバル小説と言えなくもない。あり得ないほど長引く渋滞が、普段は通りすぎるだけの場所である高速道路上で、さまざまな人間ドラマを生みだしていく。 登場人物は全員プジョーとかベンツとか車名で表現され、乾いた筆致で出来事のみ記載され、心理描写はほとんどない。渋滞でうんざりするような始まりの描写から、渋滞がながびくごとに物語はだんだんと神話のような重厚さを増していく。
まぎれもない傑作で、池澤夏樹編の『世界文学全集短編コレクションⅠ』でも本作品がトップバッターとして収録されています。
『南部高速道路』の書評はこちら↓
2位 『すべての火は火』
★9
ふたつの世界を交互に描写する実験的な小説。そして(火)にとって、世界は二次的なものでしかない。
円形闘技場で今まさに戦おうとしている拳闘士と、どうやら別れ話をしている男女の通話の場面が不定期にいりみだれる実験的な作品。ふたつの世界は一見なんのつながりもないように見えます。しかしそこには周到にちりばめられたいくつものモチーフが象徴的に配置され、二つの世界に不思議な共鳴をもたらしています。スリリングかつ、緻密でダイナミックな展開が,無駄のないストイックな文章で表現されており、なんども読み込んでしまう不思議な魅力があります
3位
『正午の島』
〜機内の窓から見えるある島が妙に気になる。そしてその島に移り住む男のお話。
★8
あらすじ
航空機の客室乗務員であるマリーニ。彼は週に数日のフライトの際に、正午になると機体の後部窓から見えるキーロス島にいいようのない魅力を感じていた。その時間になると働かず窓にへばりつくマリーニをみて、周囲の同僚はかれを島狂いと揶揄する。ある日かれは職も恋人も世間からも離れてその島で暮らそうと決意し、その島に降り立つ・・・。
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どうしてもあの場所にいってみたい、そう思える場所が私たちの人生でいったい幾つ現れるのでしょうか。ましてやそこで暮らそうと思えるほどの場所といったら長い人生でもそう多くはないでしょう。この物語は私たちが潜在的に持ち合わせている願望のようなものをうまく表現していると思います。
4位
『夜あおむけにされて』
★7
2位の『すべての火は火』と同じく、主人公がふたつの異なる世界を行き来するタイプのお話です。バイク事故で死にかけた男が、眠るたびに古代の王国(インカ、あるいはアステカ)で花の戦いと呼ばれるものに巻き込まれていく展開となっています。ただの悪夢と思いきや徐々に現実とリンクしていく様が鬼気迫っています。
5位 奪われた家
〜コルタサルの見た悪夢からヒントを得て書かれた作品。満たされた日常が突如壊されていく過程がスリリングに不条理に描かれている。
★7
あらすじ
40代に差し掛かる兄とその妹が、ゆうに8人は住めるであろう大きな家にたった二人で住んでいる。
農園からの定期収入があり、二人とも愛着のあるこの家の管理以外は特にすることもない。兄も妹も婚期を逃しかけているがさほど気にもせず、妹は編み物、兄は読書を日がな行うだけで満足している。
平穏な日常を送っていた二人だが、ある日突然兄がこう言う。
「廊下のドアを封鎖してきた。裏手を奪われてしまった」
本編を収録している光文社古典新訳文庫は文字が大きく、行間も広くとってあり、大変読みやすいです。敬遠しがちな大作もこの文庫でならスッと理解でき、読み切ることができたりします。
また、今の時代にあった翻訳がされているため以前わからなかった良さに気付けたりもします。私自身、以前の訳で読んだときはそれほど心に残らなかったのですが、今回新訳で読んでみて、その素晴らしさに気づくことができました。本作は、ボルヘスに認められ彼の助けで雑誌に掲載された経緯があります。
5位
『誰も悪くない』
★7(上記『奪われた家』と同率ということにさせてください。決めれません(汗)
男がセーターをうまく着れなくて頭がだせないだけの話です。でもこれがすこぶる面白い。幻想文学の名手コルタサルにかかればすべての些細なこともなんだかちょっと不思議で、なおかつセンスよくクスッと笑えるものとなります。
6位
『自分に話す物語』
恋人が隣で眠りにつくと、僕は自分自身に物語を話だす。たいてい主人公は僕自身で・・
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政治活動に傾倒してからのコルタサルには執筆活動に割く時間がなく、作品の質がおちたとの声が聞かれますが、下記『愛しのグレンダ』収録の本作と『グラフィティ』という短編はとても面白いです。他人の習慣というものは個人的にとても興味があります。それが個性的で、しかもロマンティックであったならそれはもう大好物ですね。みなさんはどうでしょうか。
7位
『大きくなる手』
★6
最後の一行にドキリとする切れ味するどい秀作。
軽快なタッチの文章でスルスルと読めてしまう。なおかつたった10ページの文量で非常に短い作品。カフカ的な不条理さをあっさりサクサクと書きすすめ、最後に読者にあっと言わせる技巧はさすがコルタサル!と思わず言いたくなる技ありの短編作品です。
8位
『シルビア』
★6
フリオ・コルタサルは実に様々なジャンルの作品を手掛けています。どれも非常に高い水準のものを残していますが、やはりその中でもっとも優れているのは幻想的な物語であると言えるでしょう。
本作はある夏の数日を渓谷にすごしにきた主人公と、複数の家族(おもに子供たち)に起こった不思議な出来事をテーマにしています。短いながらも、いくつもの感情が揺り起こされる秀作です。
9位『魔女』
★6
田舎町に住む一人の美しい女。身よりもなく、自ら周囲と距離をおく孤独な彼女は、ある時期から豪邸に住み始め、趣味の良い家具に囲まれて美しい若者と暮らし始める。住民はみな、彼女に対して良からぬ噂を口走る。
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本編を収録している、水声社『対岸』は本当に素晴らしい。1995年にスペインで普及版が出るまでは幻の短編集と呼ばれていました。コルタサルの処女短編集で、後期になると難解になりがちだった彼の作品が、そのエッセンスを凝縮した形でうまくまとまっています。コルタサルの魅力を知りたいと思って、これから読んでみようという方には真っ先にオススメしたい一冊です。
10位
『ずれた時間』
★6
コルタサル後期の傑作として名高い短編作品です。ある男が12か13歳のころに親友のお姉さんに抱いていた恋ごころについて語っている物語。本編が収録されている『海に投げこまれた瓶』では後期コルタサルに見られる難解さが先行し、面白味にかけるものも多いですが、本作はしっかりと作り込まれた人間ドラマで甘く、ほろ苦い感情が味わえる名作です。
3 長編がお好きな方へのコルタサルの長編作品2選。
1 『石蹴り遊び』
『ユリシーズ』の実験的技法を用いながら、パリ、そしてブエノスアイレスを舞台に現代人の苦悩を描いた、ラテンアメリカ文学屈指の野心作。
二段組577ページもある大長編です。しかも読み方が3種類あります。さらに言えば、内容は難解で完全に意味を把握しようとしたら必ず挫折します。例えて言えば、これから取り組む資格の勉強のテキストと同じようなもので、最初は意味がわからなくても、読み進めるうちに理解が進んでいくタイプの小説です。読破には苦行に立ち向かう根気がいります。その反面、一旦読み慣れてしまうと中毒のように読み続けてしまい、私も3通りすべてを一年近くかけて読みました。読んだ事自体がその人自身の財産となるような作品です。
2 『かくも甘く激しきニカラグア』
コルタサルが人道主義的見地から政治活動にのめり込んだ、後期ルポルタージュの傑作です。冷静な筆致でありながらも、文学の素地も垣間見ることのできる読みごたえのある作品です。
4・まとめ
最後まで読んでいただきありがとうございました。フリオ・コルタサル短編小説ランキングいかがだったでしょうか。
上記の10位までの短編でしたら、どれを読んでも非常に面白いです。特に一位の『南部高速道路』!これは飛び抜けて面白い。超絶面白いです。まず確実にコルタサルの沼に心地よく浸かることができます。ここまでお読みくださってありがとうございました。この記事をきっかけに一人でも多くの方にコルタサルを知っていただけたら幸せです。ありがとうございました。
感想『ナイフ投げ師』スティーブン・ミルハウザー著〜ミルハウザーを好きになることは、吸血鬼に噛まれることに似ていて、いったんその魔法に感染してしまったら、健康を取り戻すことは不可能に近い。(「訳者あとがき」より)
私のなかにある少ない言葉で、本書の魅力を伝えることは非常に困難だ。だけどもこのように素晴らしい本を縁あって読んで、それによって何かを感じることが出来たのだから、曲がりなりにもそのことを、文字として残すことに何かしら意味はあると思いたい。
スティーブン・ミルハウザー著『ナイフ投げ師』は十二の物語の収録された短編集。印象に残ったものをいくつかご紹介。
『ナイフ投げ師』
つまらなそうな表情で、たんたんとナイフを投げる男、ヘンシュ。神業とも言える彼のナイフ投げだが、それを見守る観客のなかにうごめいている暗い興奮状態にはある一つの理由があった・・・・。
『ある訪問』
妻をもらった。訪ねて来い。長く連絡の途絶えていた友人から九年ぶりに手紙が届く。山奥のあばら家に彼を訪ねると、そこには昔の表情そのままの親友・アルバートと彼の妻・アリスがいた。アリスは体長60㎝はあろうかと思われる生きたヒキガエルで・・・。
『空飛ぶ絨毯』
子供のころの長い夏の日々。いろいろな遊び。刹那。そして永遠。日ざし。終わりの予感。強烈な・・渇き。・・・退屈。 麦わら帽子 波打つ・影 燃えさかる・青 切れてしまった地上の綱。 空飛ぶぼくの・じゅうたん。
『新自動人形劇場』
市が誇る自動人形劇場の説明から入り、名匠ハインリッヒ・グラウムの人生へと話は移る。危険にして不穏なる才能、偉大にして悩める魂をもつ彼の生み出す自動人形劇に、人々は一体何を見たのか・・。
『月の光』
こうして僕の計画、大胆な月と青い夏の夜によって生まれた計画が、突如明らかになった。
描写の素晴らしさが際立つ名作。青白い月の光に照らされた暖かい夏の夜。不眠症の僕は15歳。玄関でしばし迷うも、夜の散歩に出かける。幻想的で、瑞々しく、そして切ない。
『気球飛行一八七〇年』
理詰めで緻密に説明をすることで、架空の世界に現実味を持たせたり、職能を突き詰めるあまり少しずつ少しずつ、静かに境界線上を伝い歩き、気付いた時にはすでにかなり異常な領域に踏み込んでいる人物を書かせたらミルハウザーほどの巧者は少ないが、それとはまた、全く異なった雰囲気を持つ空のロードムービ-。すべてほっぽり出して、空にただプカプカ浮かんでいたい。そんな主人公の精神性に深く共感する。
『パラダイスパーク』
本作を読むと、本書著者に畏敬の念を抱かざるをえない。それと同時に、なんて面倒くさそうな人間だろうと、心底舌を巻く。要するに、すごく面白いけど・・・ちょっとひくのだ。
『カスパーハウザーは語る』
カスパーハウザーは実在の人間で1828年5月26日、ドイツ・ニュルンベルクのウニシュリットブラッツで発見された。言葉もしゃべれず、鏡の中の自分が判らず、パンと水以外は食べられなかった。携帯していた紙片には彼の名前と、扱いに困ったら殺してくれとの文面。どうやら彼はかなりの長期、地下に幽閉されていたと推測された。事実は小説より奇なりと言うけれど、ミルハウザーにかかってはその言葉も無意味に思える。
ご一読ありがとうございました。
感想『精霊たちの家』イザベル・アジェンデ著〜まず三つ。闇の中の光の痰壺。
まず三つ。
①本書は金銭を目的として書かれたものではない。
❷わたしたち、読者の身の安全は確保されている。
③傑作である。
上記の①〜③について、順をおって記載していく。
①に関しては著者の経歴をみて、本書を読めば明らかである。本書『精霊たちの家』は、著者の母国であるチリをモデルとして展開される女系3代と強烈なエゴの持主である一人の男を軸として繰り広げられる壮大な血の物語だ。本の分厚さやでたらめな重さに反して案外詠みやすい。登場人物は多いが理解はたやすい。精霊や、予知や、テレパスなどがさらりとでてくる。ラテンアメリカの風土なのだろうか。
序盤、中盤と読み進めても読中の印象はせいぜい秀作といったところだったのだが、話が女系3代目のアルバになると一変した。それまでの民話的、幻想的な印象は影を潜め、圧倒的な現実の記述に切り替わる。ようするに恐怖政治のしかれた抑圧された状況下で大変悲惨な目に遭う。
ここにきて、小説の持つ最大の力❷が発揮される。
言ってみれば、私たち読者はわが身の安全が保証された天国のような場所で、地獄にあえぐ登場人物の境遇を読む。むろん痛みは伴わない。自分が彼(彼女)だったら耐えられるだろうか。いや、泣いて赦しをこうだろうと思う。仲間を裏切るだろう。自殺を計るだろう。気が、狂うかもしれない。いや、狂ったならば幸いだと思う。
忌み嫌っているはずの暴力を、小説として読んだ時に、読み応えがあると感じてしまった私の神経はどうかしているのだろうか。原始の時代、所有するための手段として用いられた暴力が、その活躍の場を奪われたこの平和な世の中で我々は小説の中で人を殺し、殺されることで、黒い欲情をなだめすかすのだろうか。
著者が書かざるを得なかったのがよくわかる。圧倒的な現実というものは、言葉の対極にあるものだから。闇の対極が光であることにそれは似ている。小説内の現実では、精霊たちのちからを仲立ちとして血はうけつがれ、美しい円環をなす。それはまるで、闇深く長い、入り組んだいく筋もの小道を抜けた先に唐突にあらわれた光の痰壺のようだ。